尾張のうつけ殿『織田信長』の誕生から尾張統一までの歴史を解説







日テレ系某人気番組で放送された「ニッポン人の好きな偉人」では第3位にランクインし、NHK大河ドラマや映画、ゲームなどでも題材になる戦国大名・織田信長

歴史が苦手な方でも名前や「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」の歌くらいはご存知なのではないでしょうか?

 

本記事では戦国の三英傑に数えられ、天下統一まであと一歩のところで儚く散っていった織田信長が誕生してから尾張を統一するまでを解説します。

 

織田信長は尾張(現:愛知県)にて誕生

 

織田信長は西暦1534年に尾張(現:愛知県)にて、父・織田信秀と母・土田御前(どだごぜん)との間に嫡男(ちゃくなん:正統後継者)として誕生しました。

 

織田信長は嫡男ですが父・信秀の第3子で、腹違いの兄が2人います。

織田信長が第3子でありながら嫡男になれたのは、母の土田御前が織田信秀の正室だったためです。

 

織田信長の実家は大名と言えど尾張御三家のひとつ織田大和守(おだやまとのかみ)家の配下であった織田弾正忠(おだだんじょうのちゅう)家で、天下統一はもとより尾張統一も絵に描いた餅のような家柄の出身でした。

されど、一大名の跡取り息子として兄弟の中でも特に厳しく育てられたそうです。

 

織田信長は2歳で那古野城主に就任

 

織田信長人生初の試練となったのが、彼が2歳の時に行われた父・信秀の無謀な人事発令による那古野城主の就任です。

那古野城は尾張弾正忠家にとっては軍事的な要所で空けるわけにはいきませんでした。

また、織田信長の長兄・信広は織田信長と15歳くらい年齢が離れていて、この頃には既に軍隊で重要な役を任されており、国境の最前線で守備を固めていました。

 

父の信秀は那古野城が自身の居住する古渡城(ことじょう)と長兄の信広がいる尾張の国境沿いの中間地点にあったので、食料や物資の補給と伝令のパイプラインとなることを見越してやむを得ない人選をしたのでしょう。

織田信長は那古野城主に就任したことによって母の土田御前から引き離され、2歳で親元を巣立ったのでした。

 

織田信長が不良(グレた)になった原因は、幼少期に母親から離れて育ったからであると言われています。

 

織田信長の元服・初陣と結婚

 

奈良時代から江戸時代までは、日本男児は13~20歳までの間に成人式を行っていました。

この成人式のことを元服といい、元服を済ませると一人前の大人として周りから見られるようになります。

 

元服では髪型や衣装を子供の装いから大人の装いに改め、烏帽子親から烏帽子を初めて被せてもらう儀式が行われます。

また、この時に幼名を廃して元服名に改名することになっており、織田信長は13歳のときに元服して幼名:吉法師(きっぽうし)から織田弾正忠三郎信長に改めました。

 

そして翌年、家老で養育係の平手政秀を後見人に据えて初陣を飾り、今川義元が支配する大浜城の城下町に放火して豪胆さを遺憾なく発揮しました。

 

西暦1549年、尾張と美濃の同盟が結ばれその証として織田信長と斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)が政略結婚することになります。

この時織田信長は15歳、正室の帰蝶(濃姫)は14歳という年ごろもちょうど良いお似合い夫婦でお互いの不可侵のために行われた政略的な結婚ですが、夫婦仲はとても良かったそうです。

 

『織田信長』尾張統一の一歩

 

織田信長の青年期は身内同士の家督継承権を巡る争いや一族・上司との争いに悩まされました。

先ほども記載した通り、織田信長の家柄は尾張御三家のひとつである織田大和守に仕える家臣の家柄でした。

 

織田家はそもそも尾張守護代を室町幕府から仰せつかった名門斯波家に仕える家臣でした。

斯波家は尾張以外に越前、遠江の守護代も兼任しており、多忙でした。

そこで家臣の織田常正に尾張の守護代を任せて務めを果たそうとするのですが、尾張守護代も仕事が忙しく、そのまた家臣の織田常竹に補佐してもらうことになりました。

これが有力な2つの織田家が尾張支配する始まりとなりました。

 

そのため尾張一国を得るためには、まず手始めに2つの織田家を統一しなければなりませんでした。

 

織田信長の誕生から数十年前、当時織田家当主は織田信長の祖父である信定の代。

祖父の信定は軍事力の増強や朝廷、幕府のために名誉ある活躍をするよりも経済力に注目した当時では珍しい銭ゲバ大名であったと伝えらています。

信定は他国侵攻して城などの拠点を奪取するのではなく、戦をするうえでは重要視されない中島郡(なかしまのこおり)、海西郡(かいさいぐん)など津島の港に支配の手を伸ばしました。

そこで得た収益をもとに経済力を蓄えました。

 

父の信秀も守護代の斯波家今川氏の侵攻に抗戦して経済力、軍事力が衰退して、尾張の実権を織田大和守家当主織田信友に掌握されていました。

その間に信定から引き継いだ津島と自身が得た熱田の港を支配して経済力を養いつつ勢力を拡大しました。

そして、織田弾正忠家が仕える織田大和守やそのまた上の斯波家をも凌ぐ力をつけて、尾張統一の御膳立てをしてくれました。

 

尾張統一は織田家三代がかりでようやく実を結んだ一大プロジェクトだったのです。

 

織田家親子三代で実現させた尾張統一

 

いよいよ織田信長の代となり親子三代の夢が実現されます。

織田信長が18歳の時、父親の信秀が死去します。

家督相続をされた織田信長ですが、みなさんもご存じのとおり当時は不良な青年だったため領民たちや家臣の間では「うつけ殿」や「大うつけ」とあだ名されていました。「うつけ」とは「馬鹿」という意味です。

 

そのため、織田家中では「織田信長が家督を継ぐことはよろしくないのでは?」という意見が飛び交います。

そこに名乗りを上げたのが織田信長の同母弟の信行です。

そして、織田家中は織田信長派と信行派に分かれます。

 

織田大和守家もこれに干渉して当主の信友は弟の信行を推しました。

さらに信友は信行と共謀して織田信長謀殺計画を企てます。

しかし、この計画は信友によって傀儡化された斯波義統(しばよしむね)によって織田信長に密告され、失敗します。

その後、信友は怒りに任せて斯波義統の嫡男・義銀(よしかね)が配下を連れて川狩りに出かけていた隙をついて義統を殺害します。

 

義銀は織田信長を頼って落ち延び、父親が信友の謀反によって臨終したことを知らせました。

織田信長は叔父の織田信光と共謀して信友を主君を殺めた謀反の首謀者として大義名分を掲げて誅殺して織田大和守家を滅ぼしました。

 

その後、義銀が斯波家の権威を取り戻すため、織田伊勢守家(清州三奉行のひとつで織田弾正忠家と並ぶ家柄)と結託して、織田信長を尾張から追放しようとします。

ところが、これも密告によって織田信長の耳に入り、織田伊勢守家は滅ぼされ、義銀は逆に追放されてしまい守護大名としての斯波家は滅びて、守護所を手に入れた織田信長が名実ともに織田家頭領となって尾張守護に就任し、尾張統一を実現しました。

西暦1559年、時に信長は26歳、桶狭間の戦いはこの尾張統一の翌年のこととなります。










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