織田信長天下取りの第一歩 今川義元を倒した桶狭間の戦いを徹底解説!







織田信長による天下取りの幕開けとなったのが当時無名だった織田信長(おだのぶなが)と天下人に最も近いと言われていた今川義元(いまがわよしもと)との間で繰り広げられた『桶狭間の戦い』です。

本記事では織田信長の勝因や戦法、当時の状況など『桶狭間の戦い』について徹底的に解説します。

 

織田信長による逆転劇 桶狭間の戦いの概要

織田信長

西暦1560年5月19日、戦国時代だった我が国日本を震撼させる出来事が起こります。

その出来事というのが当時はまだ尾張の小大名に過ぎなかった織田信長が駿河の大大名今川義元を討ち取った『桶狭間の戦い』です。

 

桶狭間の戦いは織田信長が天下布武を掲げる重要な転機であり、日本三大奇襲(日本三大夜戦とも)に数えられる日本史上で屈指の有名な戦いです。

また、桶狭間の戦いは中学高校の日本史で必修となっている戦いなので、こちらの記事をご覧の学生はぜひこの機会にきちんと覚えましょう。

 

桶狭間の戦いは織田信長をついでに攻撃することが目的だった

 

まずは桶狭間の戦いが開戦された西暦1560年の国内情勢について解説します。

当時は関東甲信越で甲斐の虎武田信玄上杉謙信が一進一退の攻防戦を繰り広げていました。

そして、駿河の今川義元が三河の松平家や近隣諸国を吸収し勢力を拡大をはかって天下取りの最有力候補にあげられるようになりました。

 

そんな今川義元は上洛(京都へ入ること)して足利将軍家から正式に戦国大名のトップとして認めてもらい、朝廷から官位を授かることを決意し、2万5千人という大軍を引き連れ西方へ侵攻を開始します。

そしてその道すがらで目ざわりな大名を蹴散らしながら勢力を拡大しようと画策します。

今川義元の脳内では当時はまだ尾張の小大名の織田信長など赤子の手を捻るくらいたやすく討てる、むしろ領内を通過するだけでビビッて降伏すること必至という算段でした。

 

圧倒的兵力差のある織田信長と今川義元の軍

 

織田信長と今川義元の間で繰り広げられた桶狭間の戦いには圧倒的兵力差がありました。

今川義元の軍は2万5千、対する織田信長の軍は多く見積もっても3000程度です。

ちなみに今川義元は当時42歳、織田信長は27歳と年齢や経験の差もありました。

織田信長の軍は今川義元の軍の約1/10。それでも織田信長は今川義元と戦う信念を曲げませんでした。

 

織田軍側では家臣たちが揉めに揉め、どのような作戦で戦うか切迫した話合いが行われていました。

一方の今川軍側では当時の織田信長のあだ名になぞらえて「さすがは尾張のうつけじゃ、道理すらわからないとは…織田の家臣は残念だなぁ」と完全に馬鹿にしていました。

 

桶狭間の戦い開戦直前の織田信長の奇行

 

織田家の家臣が籠城するか野戦するかで大揉めしている最中、当の総大将である織田信長はその場で寝てしまいます。

織田信長抜きで議論が続きましたが、なかなか結論に至りません。

 

そうしているうちに日付はすっかり変わってしまった頃に今川義元の軍が織田領内に侵入したとの報告で織田信長は起きだします。

そしてなぜか源平合戦における平敦盛(たいらのあつもり)を題材とした能「敦盛」の一部「人間五十年下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり」の部分だけを舞います。

これをわかりやすく例えるとすればカラオケでサビだけを歌うようなものです。

呆気にとられている自身の家臣たちを目の前にして正妻の濃姫に「湯漬けを頼む」と言ってごはんに薬味を乗せてお湯をかけて食べる食事を用意させるともぐもぐと立ち食いをします。

そして食事の後なんの号令もなく馬に飛び乗るとたった6騎のみで出撃しました。

 

織田信長が飛び出した時の桶狭間の戦いの戦況

 

今川義元はまだ19歳の松平元康(まつだいらもとやす:後の徳川家康)を先鋒とし織田家領内の鷲津砦と丸根砦を次々と陥落させます。

いともたやすく陥落させることができたため、今川義元の軍では完全に楽勝ムードが漂いました。

 

一方の織田信長の軍はというと最初に飛び出した6騎は熱田神社に入り仮眠、後続の兵士たちの到着を待ちました。

その後2時間ほどして織田信長の軍は全軍集結。

織田信長は1000人ばかりの兵士を斥候やスパイに割き、2000人を引き連れて出撃しました。

 

今川義元死す 織田信長によるピンポイント奇襲戦法

 

今川義元は拠点としていた沓掛城、大高城や各砦に兵士を分散させながら合流と先発を繰り返しつつ進軍していました。

兵士を分散させつつ進軍するのは戦のセオリーでは少々まずいことだったのですが、今川義元は織田信長の兵力を完全にナメ切っていました。

分散していても自分の手勢として残した兵士の数は5000人。負ける気はまったくなかったはずです。

 

ところが、織田信長の軍は地域住民から寄せられた情報や野生の勘をもとに険しい山道や獣道をぐんぐんと突き進みながら今川本陣を目指しました。

織田信長はときには馬糞を手にとり、ときには地面には馬蹄の足跡の数を数えながら今川義元の足取りを追いました。

織田信長は2万5千という今川義元の軍と正面衝突することは最初から考えていませんでした。

自分たちの戦い方は少数精鋭で本陣のみを急襲すること唯ひとつ。

そのとき、織田領内の住民から「今川義元が桶狭間山で陣を張り昼休憩をとる」という情報を聞きつけます。

 

「今こそ好機」と見た織田信長は桶狭間山へ急行し、今川義元の本陣へ。

その数わずか500人を2000人でピンポイントに急襲して当時お酒を飲んで陽気になっていた今川義元を討ち、今川義元軍2万5千の兵は駿河へ退却することを余儀なくされました。

 

桶狭間の戦い織田信長の勝因とは?

 

桶狭間の戦いでは当時27歳の若き小大名であった織田信長に軍配が上がりました。

このときの織田信長は周りの大名や自分の家臣たちからもうつけ殿(バカ殿)と呼ばれてバカにされていました。

今川義元はおろか周りの大名たちも織田信長は降伏するだろうと信じて疑わなかったこの戦いですが、織田信長は討って出て、しかも天下に最も近いと言われていた駿河の今川義元を討ったわけですから世間から大変注目を浴びます。

それでは織田信長の勝因となった5つを解説しましょう。

 

【その1 天が味方した】

桶狭間の戦いでは豪雨が降っていました。

地面は泥でぬかるみ、武器や着物が濡れてしまうので戦うときの環境としてはよくありません。

しかし、織田信長はそれを逆手に取って天を味方につけました。

織田信長が豪雨の降る中、迅速に移動したことにより馬や兵士の足音や足跡を消し今川義元の軍から見て織田信長の軍の動きがわからない状況を作りました。

 

【その2 考えるよりも先に行動させた】

織田信長は桶狭間の戦い開戦の直前に湯漬けを食べてたった6騎で飛び出すという奇行を行っています。

これは織田信長が内部に対して行った作戦で、家臣たちに考えさせる余裕を与えずに行動に移させることを目的としていました。

 

自分たちが籠城するか討ってでるのか揉めに揉めているときに当の総大将が6騎で飛び出しちゃった訳なのですから家臣たちは大慌て。

議論するよりも織田信長を守らなければならない状況に陥ったため討って出る覚悟を決めて織田信長を追いました。

もし、織田信長がこの場で「よし、討って出ることにしよう」と言っても家臣たちはきっと言うことを聞かないばかりか、話がもっとややこしくなって結論が出ないまま好機を逸していたかも知れません。

 

【その3 自作自演で団結力を高めた】

織田信長が熱田神社を経由したのは神頼みをするためです。

本来戦をするときは何か月も前から計画してお供えものや人手を準備し、開戦前に戦勝祈願として大名が家臣を引き連れて神社に参拝するのですが、桶狭間の戦いではそんな悠長なことを言っていられませんでした。

 

織田信長が6騎で飛び出したのも熱田神社で自作自演の戦勝祈願を準備するためでした。

そして全軍が集結するのを待ち、「戦勝祈願の儀を行う」と言って本殿前に集結させます。

後から集結した家臣たちは総大将が飛び出しちゃったのではからずも出撃する羽目になってしまった者ばかりで2万5千の今川義元と対峙することへの不安や恐怖を隠せませんでした。

織田信長の軍はいわゆる空気を読んで出てきてしまった者が大半を占めていたのでいざというときに逃げられることも想定されました。

織田信長はかようなときであってもしれっとした顔をして熱田神社で「もし天(神)が我らが勝つとおっしゃるのなら、その兆しをお示しください」というと本殿の中からチャリチャリーンっと銭が飛び出してきました。

織田信長は大げさに「やや、本殿から今しがた銭が出て参った。皆も見たであろう?此度の戦、我が軍にこそ勝機があると天(神)がお示しになったぞ」と叫ぶと、全軍が「おうっ」と呼応して士気が一気に高まりました。

 

それもそのはず、当時はまだまだ神秘的な現象や天災はすべて神様の諸行と考えられていたので、織田信長のお願いごとにベストなタイミングで何かしらの反応があったのですから「神様がお答えくださった」と信じて疑いませんでした。

また、2つの砦が陥落して誰しもが心が折れそうになっている状況下だったので、織田軍には不屈の精神が同時に生まれました。

 

実は織田信長は全軍が集まるまでの間、先に飛び出した5人の腹心と事前に打ち合わせを済ませ、銭を持たせた腹心を熱田神社の本殿に閉じ込め、織田信長のお願いごとを合図に銭を投げるという自作自演だったのです。

 

【その4 情報戦略】

織田信長は自らの手勢3000人のうちから1000人を斥候(偵察兵)やスパイとして用いました。

自軍の1/3を実働部隊から外して情報作戦要員に回した例は世界を見渡しても織田信長唯一人しかいません。

実に大胆な情報戦略を行うことで織田信長は今川義元の軍の正確な位置を把握していました。

実働部隊の2000人が今川義元が分散させた偵察兵や先発部隊に遭遇せずに今川義元本陣の位置を特定できたのは1000人の情報作戦部隊の働きがあったからです。

 

【その5 領民の支持】

周りの大名や家臣たちからはうつけ殿とバカにされていた織田信長ですが、領民たちからは圧倒的な指示を誇っていました。

普段は仕事をせずに庶民たちと相撲を取ったり、祭りに参加して一緒に踊りを披露することもあったらしいのですが、その過程で織田信長は領民とゆるぎない信頼関係を確立し慕われていました。

 

今川義元が織田領内に入っても織田軍の動きを密告する者は誰もおらず、織田軍の動きを探るために人里に斥候を放っても領民たちは「自分たちにはわからない」と決定的な情報を与えませんでした。

 

そして桶狭間山での昼休憩、これは織田領内に住む領民たちが織田信長のために動いた領民による今川義元足止め作戦であったことを知る人は少ないと思います。

そもそも今川義元は各拠点から距離のある桶狭間山で昼休憩をとることは考えていませんでした。

 

行軍中の今川義元の行列に織田の領民たちはお酒とわざと鯛やアワビなどの魚介類を持参して近づきます。

今川義元は食中毒のことや民からの好意汲んで食べ物が悪くなる前に食べ切ろうと思い立ちます。

そして陣が張られるのを見届けると領民たちは総出で織田軍を探し、今川義元本陣の正確な情報を提供したのでした。

 

まとめ

 

織田信長(3000)VS今川義元(2万5千)の桶狭間の戦い。

桶狭間の戦いにおいてその戦況は砦を2つ陥落させられたり10倍の兵力差があったりと終始織田信長にとっては不利だったものの、今川義元本陣のみを正確についたピンポイントな急襲により絶体絶命の大ピンチを見事にひっくり返しました。

織田信長を勝利に導いた勝因は

  1. 天が味方したこと
  2. 考えるよりも先に家臣たちに行動させたこと
  3. 自作自演で団結力を高めたこと
  4. 情報戦略により敵の位置を正確に把握したこと
  5. 領民の支持

の5つです。










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