応仁の乱とは?よくわからない乱第1位!応仁の乱の始まりから終わりまで







日本史には数多くの乱が登場します。

日本史で学ぶ乱の代表例としては壬申(じんしん)の乱、承久(じょうきゅう)の乱、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱などがあります。

その数々の乱のうち、よくわらかない乱の第1位に必ずといっていいほどランクインするのが今回取り上げる『応仁(おうにん)の乱』です。

この応仁の乱とはいったいどういう乱だったのでしょうか。

本記事では、応仁の乱の始まりから終わりまでをわかりやすくご説明します。

 

応仁の乱は日本一のお騒がせ夫婦から始まった

足利義政

応仁の乱は室町時代の中盤に起きた乱です。

当時日本のトップに君臨していたのが、時の室町幕府代8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)です。

 

足利義政は政治に全く興味のない将軍でした。

義政の正妻は当時では珍しい肉食系女子の日野富子(ひのとみこ)です。

 

そしてこの足利義政日野富子が今回のテーマである応仁の乱を引き起こす日本一のお騒がせ夫婦です。

 

応仁の乱は世界史上最大の夫婦喧嘩

 

応仁の乱は西暦1465年11月23日に開戦されるのですが、義政と富子の二人が結婚してから11年目のことです。

結婚11年目ともなれば「夫が家事をしない」とか「子供が学校へ通うようになっても妻がパートに出たがらない」など世間一般的な夫婦はこのようなことで夫婦喧嘩に発展することが多いと思うのですが、当時の将軍義政と正妻富子の夫婦喧嘩の動機はそれらを大きく上回ります。

 

応仁の乱の発端となる義政と富子による夫婦喧嘩の原因はズバリ次期将軍を巡るものでした。

 

義政と富子には長い間子供が生まれませんでした。

そして、義政は先に示した通り、政治に興味のない将軍でした。

世継ぎがいなかった義政は、当時出家してお寺で修行していた弟の足利義視(あしかがよしみ)に「次の将軍はお前に譲るよ」と約束していました(足利将軍家の慣例で嫡長男以外の男子は出家することになっていた)。

 

ところが結婚11年目にしてようやく足利義政と日野富子の間に長男足利義尚(あしかがよしひさ)が誕生し富子は実子である義尚を次期将軍にしたいと願うようになります。

 

そんな状況になり、実子を将軍にしたいというのを聞き捨てならないのは将軍義政の弟義視です。

「兄上がどうしてもと言うからわざわざ還俗(かんぞく:僧籍から俗世にかえること)したんですぞ。それをお忘れなのですか?」と義政に問い詰めました。

 

義政はその時ハッキリ断言しておけばよかったのですが、弟の義視には

「ちゃんと覚えているよ、でも富子の言うことも一理ある」。

そして富子には

「いやー弟はもう養子にしちゃったし…、先に約束もしているし…」。

とこのように煮え切らない態度をとり、結論を出さず問題を先送りにしました。

 

応仁の乱!東西の総大将は富子と義視、それぞれに頼られた2人

義政は8歳にして室町幕府将軍に就任したため、政治の右も左もわからない状態でした。

それをよいことに当時実権を握ったのは親戚や近臣、乳母たちでした。

おそらく義政には周りの大人が怖く写っていたことでしょう。

さらに義政は年を重ねるごとにどんどん政治への意欲を失っていきました。

それではまずいということで近臣や乳母たちも「結婚すればしっかりするだろう」ということで義政が20歳のときに当時16歳だった日野富子と結婚させるのですが、義政の政治に対する意欲は結婚前と何ら変わりませんでした。

 

そして義政は長男義尚が誕生するちょうど1年前に室町幕府の幕臣のトップ細川勝元(ほそかわかつもと)を後見人として指名し、弟の義視へ将軍職の引き継ぎを行っていました。

細川勝元

 

対して富子は細川勝元に次いで有力な大名だった山名宗全(やまなそうぜん)に「なんとか息子の義尚を次期将軍に擁立してくれ」と頼みました。

山名宗全

 

義政がいつまでも煮え切らなかったので、どんどん義視と富子・義尚の対立が深まり、それに元々ライバル同士だった細川勝元と山名宗全の対立が重なって、双方の敵対はどんどん激化していきました。

 

応仁の乱は西暦1465年11月23日、都を東西に分け西軍総大将を山名宗全(やまなそうぜん)東軍総大将を細川勝元(ほそかわかつもと)として開戦しました。

東西の軍には全国各地に点在する守護大名が加勢していきどんどん規模が膨れるのですが、次からはなぜ全国の大名たちが乱に加わっていったのかを説明しましょう。

 

応仁の乱には大名たちの家督相続争いが加わっていた

《西軍総大将》山名宗全《東軍総大将》細川勝元に味方した大名たちを一覧にします。

西軍

総大将

山名宗全

管領

畠山義就(はたけやまよしなり)

斯波義敏(しばよしとし)

有力大名

六角(ろっかく)氏

一色(いっしき)氏

大内(おおうち)氏

河野(かわの)氏

 

東軍

総大将

細川勝元

管領

畠山政長(はたけやままさなが)

斯波義廉(しばよしかど)

有力大名

赤松(あかまつ)氏

富樫(とが)氏

京極(きょうごく)氏

武田(たけだ)氏

 

管領とは室町幕府将軍に次ぐ役職で幕臣のトップとも言える役職です。

当時は三管領といって細川氏畠山氏斯波氏の三氏が交代で管領に就くことになっていました。

 

そして注目していただきたいのが東西それぞれの軍の管領です。

この対立は畠山氏斯波氏の家督争いを意味しています。

 

そして総大将と管領の味方につく大名たちが全国各地から京都へ集まって西軍11万人、東軍16万人、総勢27万人の兵士が京都へ一挙に集合して戦いの火蓋が切って落とされました。

 

応仁の乱の最中、日本一のお騒がせ夫婦は?

 

応仁の乱が勃発し、京都は戦火の渦に巻き込まれました。

しかも、開戦したとき京都に住む庶民たちにはなんの通達もなかったのだとか。

京都に住む公家でさえ身の危険を感じ、京都にある皇居や御所(将軍の屋敷)へ避難しました。

 

そんな中、将軍足利義政は…酒浸りの毎日を送っていました。

もう一方の富子はと言うと、酒浸りで用をなさない夫の代わりに避難してきた公家の接待、政務に追われて忙しい毎日を送っていました。

そもそもなぜ富子がこのようなことになっているかと言うと、富子の家柄がそれを物語ります。

 

富子の実家は日野家です。

日野家は藤原鎌足(ふじわらのかまたり)から分れた貴族の中でも名門中の名門です。

 

室町幕府3代将軍足利義満が正室と側室に日野家から嫁を娶ったのを始めとして、足利家では無条件に日野家から嫁を迎えることが慣例となっていました。

義政の母親も祖母も日野家の出身で、義政と富子はいわばはとこ同士の結婚でした。

日野家は藤原氏の庶流ということもあり、天皇家とも非常に強いつながりを持っていました。

そのため、富子にはそれなりに発言力があったのです。

 

応仁の乱で被害を被った文化財

応仁の乱ではしばしば放火がされました。

なぜ放火されたのかと言うと、両軍で拠点を潰し合うためです。

要するに兵士が駐屯しやすいような施設を抹消することによって攻めにくく、守りづらい状況を作る必要があったのです。

 

応仁の乱の戦場となったのは京都です。

京都はかつて第二次世界大戦中の米軍でさえ「重要文化財が多いから原爆投下は控えるべき」と意見が上がるほどの都市です。

しかし、応仁の乱ではそこは全く考慮されず、八坂神社金閣寺清水寺聖護院伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)南禅寺(なんぜんじ)と言った重要文化財が全壊か一部焼失しました。

さらに祇園祭りも中止を余儀なくされました。

 

応仁の乱に乗じてサイドビジネス

 

応仁の乱が開戦しから5年、応仁の乱を起こすキッカケとなった当の本人の日野富子は米の買い占めを行ってサイドビジネスを行います。

お米を買い占め、高値をつけて販売することにより多くの利益を得ました。

そしてその利益を今度は応仁の乱で軍備を整えなければいけない東西両軍へ高利で貸し付け、その利息で儲けるようになります。

 

さらに京都の7つの出入り口に関所を設け、通行税を取って大儲けしました。

そのとき、日野富子が上げた利益は現在価値にして約70億円に匹敵すると言われています。

 

応仁の乱中盤で起きたまさかの出来事

 

応仁の乱が長く続き、やっと将軍の義政が行動に出ます。

その行動とは、弟の義視に対して「悪いけど、もう一回出家して」というお願いでした。

義視は優柔不断な兄に失望し、伊豆へと逃れました。

しかし、それでも応仁の乱は鎮まりません。

 

そのうちによくわからないことが起きます。

当初西軍総大将山名宗全に庇護を求めた富子が東軍の細川勝元に庇護を依頼して東西両軍が細川勝元のものになってしまいました。

立場を失った山名宗全は伊豆へ行った義視を連れ戻し、東西がすっかり入れ替わってしまう現象が起きました。

応仁の乱の発端は次期将軍を巡るものだったのですが、途中からは大名家同士、守護家同士の主導権争いになっていき、次期将軍のことはどうでもよくなってしまいました。

 

次期将軍が決まっても応仁の乱は終わらない

応仁の乱が開戦してから約8年、ようやく義政は次期将軍を誰にするか結論を出しました。

義政が室町幕府第9代将軍に任命したのは足利義尚

自身と正妻との間に誕生した子供を次期将軍としたのです。

 

これで応仁の乱は終わると思うのですが…

山名宗全

「はぁ?将軍が決まっただって?こっちは決着がついてないぞ!!」。

 

一方の細川勝元

「将軍が決まったことと戦は別だ!!」。

 

ということで、応仁の乱は続行します。

 

10年以上続いた応仁の乱の終わり

 

応仁の乱は開戦から11年続きました。

11年の歳月が流れる中で徐々に守護大名たちは経済的に力を失っていきました。

 

そうした中で台頭してきたのが戦国大名たちです。

自身がもともと従っていた守護大名たちに歯向かって下克上の戦を繰り広げ守護大名たちはそれらを鎮めるために自国へ次々と帰っていきました。

結局応仁の乱は11年間戦っただけで決着はつきませんでした。

 

まとめ

 

応仁の乱の発端は第8代将軍足利義政とその正室日野富子との夫婦喧嘩です。

応仁の乱は当初次期将軍の座を巡って、将軍の弟と将軍の実子が巡った争いでしたが、後にはそれが管領職の家督相続争いなり、守護大名同士、大名同士の争いに発展して次期将軍が決まっても止められない戦いになりました。

結局応仁の乱の決着がつく前に下克上の風潮がはびこって、各国の大名たちは帰国を余儀なくされて戦国時代に突入し、応仁の乱は終わりを迎えました。










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2 件のコメント

    • ご指摘ありがとうございます。

      3代将軍足利義満に修正いたしました。

      今後とも宜しくお願いいたします。

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