給食を発明したのは織田信長!?織田信長が戦術として始めた給食制度とは?







あなたは小学生のころ学校でいちばん楽しみにしていたことは何でしょうか?

得意教科の時間や部活と答える方もいると思いますが、大体の方は給食と答えるでしょう。

 

現代においては、教育機関がどんな家庭の子供たちにも食事を供給することができるように取り入れた給食制度ですが、実は戦国時代に織田信長が発明した給食は画期的な戦術として生まれました。

 

現代における学校給食とは少し違うかもしれませんが、織田信長が発明した戦国時代の給食制度について、お伝えしていこうと思います。

 

農民や町人が自ら戦争に参加した理由のひとつはごはん

戦国時代であった当時、農民や町人が死を恐れずに自ら戦に赴く大名の行軍する行列に加わったのには理由があります。

そのひとつが「ごはんが食べられる」ということでした。

当時の農民や町人は一日2食が基本で、白米などはおめでたいときにしかたべることのできないごちそうでした。

 

それでは一体当時の農民や町人が何を食べていたのかというと、お米が食べられたとしてもお粥の状態でした。

普段は麦飯キビなどの雑穀や保存食として挽いていた小麦粉などをせんべいやおやきのように加工して食べていました。

 

織田信長の「給食にする」という発想は画期的な戦術だった?

桶狭間の戦いで勝利した織田信長はその後一気に勢力を拡大し、有力大名として名乗り出ました。

関東甲信越や攻防を繰り広げていた武田信玄上杉謙信北条氏政、現山口県にいた毛利元就などと比べ、名古屋の地は京都に近く、織田信長は立地条件的にも恵まれていました。

近畿平定までの道のりは圧倒的に近く、道中に強烈なライバルはいないし、都や港への進軍に付随して得られる鉄砲などは他の地域とは比べ物にならないほど入手しやすいものでした。

 

そのため現代において戦国時代を勉強する私たちは以下のような勘違いをしてしまいがちです。

それは、織田信長の軍団は合戦に大量の鉄砲や最新の兵器を導入できていたからこそ圧倒的な強さを誇る軍隊へと成長できたのだと。

しかしこれは完全な誤解です。

織田信長の軍が他の大名と比べて大幅に強化されたのは敵兵を殺傷するための鉄砲や槍をはじめとる兵器ではありません。

織田信長が圧倒的な強さを誇る軍隊をもてた理由、それこそが「給食制度」です。

 

現代での給食制度と言えば小学校や中学校でどんな家庭の子供でも食事にありつくことができるように食事を供給する制度ですが、むろん他の国と比べると織田信長の軍の食事はオカズが一品多いといった類の話ではありません。

そもそも織田信長が発案した給食制度そのものが画期的な制度だったのです。

 

足軽の食事は織田信長ら大名が用意するものだった

戦国時代は天候が悪く飢饉が相次ぐ時代でした。

というよりも食糧難だったからこそ戦国時代に突入したと言っても過言ではありません。

そんな状況のなか、戦に駆り出される足軽などといった下級武士たちは食料を自前で用意しなければなりませんでした。

そのため、ひとたび戦が始まれば周囲の農村は略奪されて荒れ放題になることが常、下級武士たちは大義名分のもとで堂々と民家に押し入り、盗みを働いていたのです。

このような調子では大量の兵士を長期間養っていくのは至難の業です。

 

そこで織田信長は食事を配給するシステムである給食制度を導入することにより、多くの兵士を長期間確保することができる体制を目指します。

これが大成功。給食制度の導入により、むしろ織田信長が長期間兵士を確保するというよりも下級武士たちが軍隊として残ることを望んでいくような体制が出来上がっていったのです。

合戦においてこれがどれだけ有利にはたらく戦術であるのかすぐにおわかりになれるかと思います。

 

織田信長のもとへ集まった足軽は給食目的がほとんど

戦国時代は普通に食べていくことすら困難だったので、必然的に織田信長の軍には給食目的で集まる兵士が多くいました。

「何もしなくても織田信長の軍にいるだけで食事にありつくことができる」

そうなれば、無理に略奪を行って咎められることもないし、略奪することに使う体力の消耗や良心からくる負い目を感じることもありません。

 

食を求めて参戦するという庶民の傾向をよく理解したうえで導入されたからこそ、織田信長の軍に参加する足軽たちは安心して戦うことができたのではないかと思います。

おそらく、織田信長自身も給食制度を導入するべきだという考えに到達するまでに、庶民の経済事情や庶民が戦に参戦するメリット・デメリットをよく分析して研究していたのではないでしょうか。

 

織田信長の真似をして多くの大名たちが給食制度を導入したが失敗に終わる

 

戦国時代の末期になって、北条氏などのほかの大名たちも「給食」を取り入れようとしました。

しかし、それは裏目に出てしまいます。

「うちの殿様、本当にメシくれるのかいな」、「給食はデマで、手ぶらでいったら餓死するかも」ということでなかなか信用を得られず、うまく広まりませんでした。

 

もし、織田信長の実像が一般的な認識である悪魔と恐れられたワンマンな大名だったら給食制度は決して成立していなかったことでしょう。

このことからも織田信長の人望の厚さが垣間見えていると言えるのではないでしょうか。

 

まとめ

 

織田信長が戦国時代に発明した給食制度は当時としては画期的な戦術でした。

織田信長の足軽たちは給食があったからこそ無理な任務や行軍にも耐えることができ、尾張のうつけと言われた織田信長の軍にあえて参加しようとする動機にもつながったのではないかと考えます。










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