『防人の歌』で知られる防人とはどんな仕事だったのか?







日本史か国語の古典では必ず万葉集という和歌の詩集を習います。

そしてこの万葉集に入選し、作者不明ながらも時の天皇が感動して高評価を与えた和歌が『防人の歌』です。

 

さて、こちらの記事ではその防人の歌でしられる防人について、その仕事内容や歴史について説明します。

 

防人とは何か?

 

防人「さきもり」または「ぼうじん」と読み、古代中国において発祥した一般庶民から徴兵する軍事制度です。

日本では飛鳥時代から平安時代まで、中国に倣って定めた律令制度に基づいて国民に課せられた義務のひとつです。

 

日本ではいつ防人の制度を取り入れたのか?

孝徳天皇

前述にある通り、防人は中国の律令を真似て、律令制度とともに取り入れた制度です。

日本で初めて防人の制度が取入れられたのは西暦646年です。

 

大化の改新の序盤、中大兄皇子が母からの皇位継承を辞退したことによって即位した孝徳天皇(こうとくてんのう)が己のマニュフェストとなる改新の詔で発した制度のひとつです。

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防人の仕事内容

 

防人の仕事内容、それはズバリ!

外国、特に中国と朝鮮から自国を守るための警備、防衛をすることです。

 

防人は任期制の兵役であり、原則として最低3年間はその任務を全うしなければならない義務がありました。

 

防人を管理するのは太宰府天満宮があることで知られる現在の九州福岡県の太宰府であり、防人たちは太宰府の指揮のもと、練兵訓練や砦、防護柵の建設を行いました。

また、防人の任期が短縮されるのは非常に稀なことで、任期を延長される人々が大半でした。

 

しかし、防人に任命されることは悪いことばかりではありません。

防人として勤務している間はお米や特産品、工業製品を国に納入する税が免除または軽減されました。

 

防人に任じられた人々

 

防人に任じられた人々はみな一般庶民の者ばかりです。

彼らは普段は農家漁師工芸家などというまったく畑違いの仕事をしている人々であり、なおかつ地方から派遣される者が多く、防人の大半は単身赴任でした。

 

防人に着任するときの食料や武器は庶民がすべて自腹であり、太宰府に到着するまでは相変わらず税を徴収されます。

農民にとって防人はとても大きな負担を強いられる仕事であり、選ばれてしまった兵士の士気は限りなく低かったであろうと考えられています。

 

防人を徴兵するときは、中央または太宰府から朝廷の役人が派遣され、中国を真似て取り入れた戸籍を利用してランダムに選ばれました。

役人は防人として徴兵した人々を太宰府に赴任するときは逃げられないように監視して引き連れて行きましたが、防人の任期を満了し人々が帰郷するときに関しては援助をしたりはしませんでした。

その為、里へ帰る道中で力尽きて野垂れ死ぬ者も少なくありませんでした。

 

防人という仕事はなぜ必要になり、そして義務になったのか

 

防人が必要になり、国民の義務となってしまったのはなぜか?

それを説明するにはまず『白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)』を説明する必要があります。

 

日本は百済(くだら:朝鮮半島の国)からの要請を受けて西暦663年に唐(とう:中国の王朝)新羅(しらぎ:朝鮮半島の国)連合軍との戦争に参加します。

戦争は2日間にわたって繰り広げられましたが、日本軍は朝鮮半島に上陸することも敵わず、唐の大船団を前にして海上で屈服します。

白村江の戦いに参加した日本軍の兵士の大半は海のもくずと消え、白村江の戦いで日本は大敗を喫します。

そして時の天皇だった天智天皇(てんちてんのう)百済から流れて来た難民や皇太子の叔父を受け入れてしまったことで、日本は懸念材料を抱えてしまいます。

それは新羅の軍が日本へ向けて百済の皇族や流民を追討する可能性です。

 

聖徳太子(しょうとくたいし)がまだ権勢を振るっていた頃は、彼のカリスマ性により中国と日本は対等な関係を続けることができました。

しかし、そのときの約束を白村江の戦いで破ってしまい、なおかつ敗戦国となったので対等な立場をとることはできません。

白村江の戦い以降、日本は中国と新羅からの侵略行為に常に怯えて暮らさなければならなくなったのです。

 

つまり、外国に対して常に目を光らせ、いざというときに戦う兵士が必要になったことによって防人という制度はつくられました。

 

当時の太宰府(現在の福岡県)は都のある奈良県からみると超ド田舎です。

都から太宰府に赴任することになった役人たちは皆、まるで島流しにあったかのような勢いで悲しみました。

それが故に朝廷軍を太宰府に派遣することは天皇でさえなるべくしたくない手段でした。そのため、朝廷が防人として選んだのが東国に住む人々でした。

 

東国に住む人々の多くはもともと西国に住む者たちで、朝廷が土地を与える代わりに農地開拓と蝦夷が反乱を起こしたときの戦闘員となることを命令していました。

そのため、東国の人々は屈強な者が多く、外国との戦いに備える要員としてはまさにうってつけだったのです。

 

まとめ

 

万葉集にある『防人の歌』で有名な『防人(さきもり)』は西暦646年、大化の改新序盤に制定されました。

その主な仕事内容は外国、特に中国や朝鮮に対して目を光らせ自国の警備防衛にあたることでした。(現代で言うところの徴兵制度)

防人の仕事は任期制であり、最低3年の任期ながらも短縮されることはごく稀で、任期を延長されることがほとんどでした。

 










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