井伊直弼が暗殺された『桜田門外の変』についてわかりやすく解説!







今から約150年前。時の大老であった井伊直弼(いいなおすけ)が現在の皇居と警視庁の中間地点に位置する桜田門の前で暗殺される事件が起きます。

その事件こそが桜田門外の変です。

本記事では桜田門外の変がおきた場所、要因などを含め、桜田門外の変の全貌をわかりやすく解説していきます。

 

桜田門外の変ってどこで起きたの?

桜田門

警視庁の目の前にある交差点から皇居を眺めると堅固な城門がそびえています。

この門が桜田門であり、井伊直弼が暗殺された現場は皇居と警視庁を隔てる大通りで、現在は多くの自動車が走っています。

江戸城の桜田門付近で起きたクーデターであるため、桜田門外の変と呼ばれます。


 

桜田門外の変で暗殺された井伊直弼

井伊直弼(いいなおすけ)

桜田門外の変で暗殺された井伊直弼はひこにゃんで有名な彦根城の城主にして、徳川将軍家から絶大な信頼を得る彦根藩主です。

井伊直弼の祖先はかつて徳川家康(とくがわいえやす)に仕え、「井伊の赤揃え」とよばれる最強騎馬軍団を率いて連戦連勝を成し遂げた戦国武将の井伊直政(いいなおまさ)です。

徳川家康は忍者に寝首をかかれそうになっていたところを井伊直政に救われ、以来井伊家を重用します。

井伊家は代々江戸幕府の要職に就き、歴代江戸幕府将軍を補佐しました。

桜田門外の変で暗殺された井伊直政も大老を仰せつかった人物です。

 

大老とは江戸幕府の制度において将軍が幼いか国が混乱期であるときにのみ設置される臨時職で、当時は内閣総理大臣に相当する役職だった老中よりも大きな権限を持つ役職でした。

 

桜田門外の変はなぜ起きたのか?

桜田門外の変が起きた要因として考えられているのは以下の3つです。

 

  1. 日米修好通商条約の締結
  2. 安政の大獄
  3. 過激な思想を持つ志士の登場

 

2度に渡るペリーの来航で日本は「開国」「鎖国」かの究極の選択を強いられました。

井伊直弼ら幕府の中枢はアメリカと日本との軍事力や文明の差を目の当たりにし「積極的に開国すべき」と主張したのですが、大多数の諸藩の大名たちは「鎖国を続けるべき」と反論しました。

 

当時の将軍はすべて老中や井伊直弼らに対処を任せっきりだったため、井伊直弼は最終手段として時の天皇である孝明天皇(こうめいてんのう)に「開国せよ」という趣旨の詔勅を発してもらうよう直談判しました。

ところが、孝明天皇は徹底的な攘夷思想(じょういしそう:外国を排斥しようという思想)の持主だったためそれを拒まれてしまいました。

 

しかし、開国しないとなると今度はアメリカ軍が黙っていません。

日本とアメリカが衝突しても日本が負けることは目に見えていました。

そのため、井伊直弼は独断で条約の調印を強行しました。

すると一部の藩の大名や公家たちから「幕府は藩を軽視している」、「幕府は天皇陛下をないがしろにしている」などと批判の声が上がるようになりました。

そして、井伊直弼は幕府の秩序を保つため、幕府を批判する大名や公家たちの粛清を行い厳しい弾圧を行いました。

これが俗に言う安政の大獄です。

 

安政の大獄では主を失い露頭に迷う武士や恥を忍んで武士の厄介となる公家なども現れました。

このような惨事を引き起こした幕府の中枢を一掃しようと水戸藩長州藩薩摩藩などの過激派な藩の中から世なおしを企む志士たちが登場します。

そして志士たちの第一の矛先となったのが当時大老を務めていた井伊直弼だったのです。

 

桜田門外の変の全貌

桜田門外の変が起きたのは旧暦の3月3日、桃の節句です。

江戸幕府では朝廷の行っていた桃の節句や端午の節句などの年中行事を取り入れ、江戸幕府将軍家の威厳を民衆や公家に対して示していました。

節句の行事では各藩の大名が一挙に江戸城へ集結し、将軍に祝辞を述べ長寿と健康、国家平安を願う儀式が行われました。

そのため、各藩の大名からするとどうしても外せない用事だったのです。

 

桜田門外の変当日、井伊直弼は江戸城へ参内するため駕籠に乗り、彦根藩邸を出発しました。

この日は江戸城に諸大名が行列をなして入城するため江戸の街ではまるでディズニーランドのパレードを見るように民衆が路肩に集まって行列の往来を観覧していました。

 

井伊直弼以下彦根藩御一行がちょうど桜田門にさしかかろうとしていたとき、突然粗末な上衣と袴を履いた浪人風の若者が一行の行く手に立ちふさがり「直訴でござる」と書状を掲げてその場にひざまづきました。

一行の先導者が取次をするため若者の前に立ち、書状に視線を向けたところ、若者は書状を投げ捨てると同時に素早く刀を抜き、先導者一太刀浴びせて斬殺しました。

それを見ていた警護隊が一斉に若者を取り押さえようと動き出したのを合図に観客の中から7人ばかりの浪人風の男たちが飛び出してきて約5分間におよぶ戦闘の末、井伊直弼を駕籠の中から引きずりだし、地面に両手をついていた井伊直弼の首を斬って殺害すると犯行グループは一目散に現場から逃走しました。

 

桜田門外の変の犯行グループ

桜田門外の変を実行した犯行グループは10人に満たない水戸藩薩摩藩脱藩浪士たちでした。

彼らは己の主君や同僚に迷惑をかけないようにあらかじめ武士の身分を捨てて犯行におよびました。

犯行グループの大半は水戸藩浪士が占めており、薩摩藩浪士と手を組んだ共同犯行でした。

 

井伊直弼は桜田門外の変で自分が殺害されることを予知していた?

 

桜田門外の変を引き起こした犯行グループは井伊直弼に対しなんと一年以上前から犯行声明や恐喝ともとれる行為をしていました。

 

井伊直弼が居住していた彦根藩邸には連日のように罵詈雑言を書いた文や犯行声明、脅し文句を書き連ねた書状などが送られており、彦根藩士たちは犯行グループの創作をしようと何度も井伊直弼に進言していました。

井伊直弼はそれらに少しも動じることなく、いつも真面目に取り合いませんでした。

実際、桜田門外の変があった当日には「本日、桜田門にて貴様を誅殺する」という犯行声明が寄せられており、側近たちは経路変更することを勧めていました。

しかし、井伊直弼はあえて経路変更を行わず桜田門へ向かいました。

 

井伊直弼は徳川将軍家と幕府が諸藩になめられないようにあえて死の道を進んだと後世の歴史研究者たちは考察を述べています。

 

まとめ

 

桜田門外の変は江戸城(現在の皇居)の桜田門前の大通りにて時の大老井伊直弼が水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士に暗殺された事件です。

桜田門外の変が起きた要因として考えられているのは以下の3点です。

 

  1. 日米修好通商条約の締結
  2. 安政の大獄
  3. 過激な思想を持つ志士の登場

 

皇居や警視庁には社会科見学や修学旅行で見学しに行く機会があるかも知れません。

もしも皇居や警視庁を訪れた際はぜひ桜田門にも足を運んでみてください。












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