佐々木小次郎が扱った尋常じゃない刃渡りの刀剣「備前長船長光」通称「物干竿」







戦国時代が終わりを告げ、江戸幕府が開かれた直後、二人の剣豪が巌流島にて決闘を行いました。

これが有名な巌流島の戦いで、佐々木小次郎と宮本武蔵の真剣勝負のことなのですが、敗者である佐々木小次郎が扱っていた物干竿という刀は尋常ではない長さを誇る刀剣でした。

本記事では佐々木小次郎が扱った刀剣「物干竿」と佐々木小次郎について解説していきます。

 

佐々木小次郎と愛刀の物干竿

佐々木小次郎と言えば、宮本武蔵との真剣勝負である巌流島の戦いにおいて敗者となってしまう剣豪です。

残念ながら宮本武蔵には及ばなかったのですが、彼は当時実戦には不向きと考えられていた長刀を用いて、その名を全国に轟かせて毛利家中の剣術師範を務めました。

また、毛利家を辞職したのちは巌流という剣術の流派を興しました。

 

そんな彼が扱っていた愛刀が備前長船長光といい、通称物干竿と呼ばれる規格外の長さを誇る刀です。

本記事では、佐々木小次郎とその愛刀である物干竿について解説していきます。

 

佐々木小次郎という剣豪について

バガボンド(16)(モーニングKC)

佐々木小次郎の出自については不明な点が多いです。

豊前国(現:福岡県)の豪族の息子だったそうなのですが、他国で生まれたとも言われており誕生に関する情報も定かではありません。

 

佐々木小次郎は少年期から、中条流の富田勢源(とみたせいげん)あるいは勢源の門下の鐘捲自斎(かねまきじざい)を師として仰ぎました。

つまり、鐘捲自斎の門下生だった一刀流の開祖、伊藤一刀斎(いとういっとうさい)とは同じ師を仰ぐ兄弟弟子の間柄でした。

 

立派な剣豪に育った佐々木小次郎は師のもとを離れて毛利氏に仕えました。

毛利家の家臣として仕えてからは武者修行のため、辞職して諸国行脚の旅に出ます。

そのなかで必殺技となる「燕返し」の剣法を考案し、巌流と呼ばれる自らの流派を立てました。

 

少年期に培った長刀の技術

 

当時の剣客は自分の体躯に合わせて使う刀の長さを決めていました。

身長や足の長さに適さなければ、力を十分に刀に伝えられないからです。

この鉄則を完全に無視し、身長約160センチ、体重が約53キロという武将にしてはあまり恵まれていない体格だった佐々木小次郎が長刀中でも屈指の長刀を扱った理由は、中条流の修行中にあります。

 

中条流は剣術以外にも小太刀の技術も伝える総合武術でした。

剣客同士の戦いでは、不自由がない限り一寸でも長い刀を扱っていることが有利となるというのがセオリーで、小太刀を伝える流派はあまりありませんでした。

そんな中、まだ幼い佐々木小次郎に稽古の相手をさせた師は、腕の長さに開きがありすぎるため通常の太刀を持たせました。

 

つまり、剣術の基礎を叩きこむ期間に毎日体格にそぐわない刀を振らされていたのです。

となれば、身体が成長するとそれに合わせて刀身の長さを増やす必要があります。

毎日長い刀を扱っていた佐々木小次郎にとって長刀は扱いにくい武器ではなく、いちばんしっくりくる武器だったと言えるでしょう。

むしろ佐々木小次郎にとっては通常の刃渡りの太刀は短くて使いにくいと感じたのかもしれません。

 

扱いにくいと言われた長刀「備前長船長光」、通称「物干竿」

バガボンド(17)(モーニングKC)

いくら長いほうが有利とはいえ、物干竿クラスの長刀ともなれば話は別です。

その刀を自由自在に扱うためには、人並み以上の技術と腕力が必要でした。

それと同時に腕の長さがなければ、鞘から刀身を抜くことさえままならないはずです。

 

なお、先ほど説明した燕返しという必殺技ですが、長刀を大胆に切り返すカウンター技で、長刀でなければ繰り出すことができないと言われます。

燕返しという必殺技はまるで飛ぶ燕を落とすことができるほどの目にも止まらぬ速さであったと伝えられています。

 

巌流創始の原動力 備前長船長光

 

二天一流兵法の剣豪、宮本武蔵と関門海峡の巌流島の戦いで死闘を繰り広げた佐々木小次郎の愛刀は正式名称を「備前長船長光」。通称を「物干竿」と言いました。

 

その名のとおり、尋常ではない長さの刃渡りを誇る長刀で、その刀身の長さからその異名がつけられました。

なんと、刃渡りだけでも90センチ以上1メートル弱もあり、80センチを超えるだけでも珍しかった時代において、物干竿の刃渡りはとびきり目を見張るものがありました。

物干竿と比喩されることに異論があるはずもなく、また備前長船長光は名刀の代名詞でもあり、サイズだけでなく斬れ味や強度も桁外れに凄まじかったと伝えられています。

 

あまりに長くて帯刀できない

 

佐々木小次郎が所有した物干竿は規格外に長い刀であることは先に示しました。

刃渡りだけでも90センチを超える物干竿にはその刀身に合わせて長い柄が取り付けられていました。

取りつけられていた柄の長さだけでも40センチを余裕で超えていたので、柄が取りつけられた後の物干竿は全長130センチ以上になります。

 

人間の腰の位置はせいぜい地上から1メートルしか離れていないので、物干竿を帯刀すると刀を地面に引きずるような長さとなります。

さらに佐々木小次郎自身はあまり背が高くない人物だったので、なおさら腰に物干竿を帯びるのは難しいことです。

そのため、佐々木小次郎は忍者のように背中に物干竿を背負って持ち運んでいました。

 

また、佐々木小次郎は鞘から刀を高速で抜いて斬撃を与える抜刀術の類を一切使いませんでした。

事実、巌流島の戦いにおいて、宮本武蔵と対峙した佐々木小次郎は物干竿を鞘から引き抜くと同時に海へ鞘を投げ捨てたとされています。

 

まとめ

 

巌流島の戦いで惜しくも敗者となってしまった佐々木小次郎ですが、彼は勝者となった宮本武蔵に負けず劣らずの実力がりました。

実戦には不向きであるはずの物干竿は佐々木小次郎の特異な才能を象徴する名刀です。












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