映画「関ケ原」の題材にもなっている『関ケ原の戦い』は、1600年に徳川家康(とくがわいえやす)と石田三成(いしだみつなり)が争った戦いです。
関ケ原の戦いでは徳川家康が開戦前から綿密に情報作戦を展開し、敵味方の武将と駆け引きをしながら裏工作を行っていました。
本記事では徳川家康が関ケ原の戦いの際に行った裏工作についてご説明しましょう。
徳川家康は関ケ原の戦いの勝敗を会議で決めた?
戦国武将があれこれと頭を悩ませたのは合戦中だけではありません。
大変な作業ではありましたが、重要であったのが戦前の情報収集や軍議、裏工作です。
関ケ原の戦いでは、開戦から約2カ月前に行われた「小山評定(おやまひょうじょう)」と言われる会議が徳川家康率いる東軍を勝利へ導いたと考えられています。
当時、徳川家康は上杉討伐のため、諸将を率いて進出していましたが、その途上で石田三成が大坂城にて挙兵したという報を受けました。
そこで徳川家康はすぐさま全軍の諸将を召集し会議を開きました。
自分につくのか、それとも石田三成につくのかを決めるように迫ったのです。
そもそもなぜ徳川家康がかような質問を投げかけたのかと言うと、上杉討伐に参加していたのは豊臣恩顧の武将がほとんどで、誰が味方につくのか徳川家康にも確信が持てなかったからです。
ここで、徳川家康が上手かったところが「自分の味方につけ」とは決して言わなかったことです。
それどころか、大坂では石田三成が諸将の妻子を人質に取っていたため、「人質を取られて心配だろうから、あなた方が石田の味方になっても私は少しも恨まない」と大胆な発言をしたのです。
すると、福島正則(ふくしままさのり)が「手前は妻子を捨ててまでも徳川殿にお味方いたす」と口火を切りました。
すると、他の武将たちも福島正則に負けじと徳川家康に味方することを表明し、豊臣恩顧の武将らを含めたすべての武将が徳川家康の味方になりました。
しかし、上記のような流れができたのは実は徳川家康の裏工作によるものでした。
徳川家康は石田三成と犬猿の仲で、しかも最古参の豊臣恩顧の武将である福島正則に前持って根回しをしておき、絶妙なタイミングで口火を切ってもらうように約束を取り付けていたのです。
こうして徳川家康は関ケ原の戦い開戦前の会議の時点で、勝利への道を一足先に歩いていました。
徳川家康はデマ情報で関ケ原の戦いの舞台を自分の得意な土俵にした
現在の関ケ原は400年前に天下分け目の戦いが行われたとは思えないほどの田園風景が広がるのどかな場所です。
関ケ原の戦いでは全国のほとんどの武将が関ケ原に一挙集結し、総勢17万人が東軍と西軍に分かれて戦ったと言われていますが、この戦いは当初関ケ原とは別の場所で行われる予定となっていました。
豊臣秀吉の死後、打倒石田三成の機会を今か今かと待ち望んでいた徳川家康は、まず上洛(京都に上ること)の要請を無視した会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に対して挙兵します。
しかし、これは石田三成に向けての誘い水でした。
石田三成は毛利輝元(もりてるもと)らを招集して準備を整え、現岐阜県の大垣城で徳川家康が率いる軍を迎え撃つ算段でした。
ところが、徳川家康はどうも攻城戦が苦手でした。そのため、どうしても自分の得意な野戦に持ち込みたい徳川家康は「大垣城ではなく、石田三成の居城(佐和山城)を攻撃する」というデマ情報を流したのです。
それを聞いた石田三成は籠城するはずだった大垣城を出て、急遽佐和山城へ進路をとります。
そして大垣城と佐和山城のちょうど中間地点にある関ケ原で両軍は対峙することとなります。
勝敗はたったの半日で決し、徳川家康の軍に軍配が上がったのは周知の事実です。
以後、日本は徳川家による支配が約300年続きます。
もしも石田三成の当初の思惑通り、戦いの舞台が大垣城のままだったら、徳川家康は苦戦して歴史が変わってしまったかもしれません。
徳川家康の根回しで石田三成を裏切った2人
関ケ原の戦いは戦国史上最大の戦いと言われています。
先の章でも示しましたが関ケ原の戦いに参加した兵士の総数は約17万人。
これだけの規模ならば、決着には相当な時間を要すると思われますが、実際には開戦してからわずか半日でこの戦いは終わりました。
これだけ早く決着したのは勝者の徳川家康による用意周到な根回しがあったからだと言われています。
実はというと、東軍の徳川家康は敵である西軍の毛利輝元(もうりてるもと)と小早川秀秋(こばやかわひであき)と内通しており、毛利輝元は領地の所有権が保証される”本領安堵”を条件に戦わないと約束し、また小早川秀秋はいざ戦いが始まると東軍に寝返るという手はずが整っていました。
つまり、この2人は開戦前から石田三成を裏切っていたのです。
だが、関ケ原を見下ろせる松尾山に陣を敷いた小早川秀秋の軍は、西軍が予想外に善戦している様子を見て、なかなか西軍に斬り込めずにいました。
動く気配のない小早川秀秋に対してしびれを切らした徳川家康は、松尾山に向けて大砲を発砲して威嚇します。これに驚いた小早川秀秋は急いで下山し、西軍に殺到しました。
こうして計算外の攻撃を受けた西軍は総崩れとなり、わずか半日で徳川家康が率いる東軍が勝利しました。
まとめ
天下分け目の関ケ原の戦い。戦国史上最大と言われているこの戦いで勝者となった徳川家康は敵味方にいろいろな裏工作をしていました。
- 豊臣古参の武将福島正則に自分の味方となる意志表明を依頼
- 嘘の情報を流して戦いを自分の得意な土俵に持ち込む
- 小早川秀秋と毛利輝元を根回しして抱き込んでいた
以上が関ケ原の戦いの勝利を決定づけた徳川家康の裏工作の内容です。
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