いまから500年前の戦国時代、世は乱れ各地で戦や内乱が相次ぎました。
そこで活躍したのが名だたる戦国武将ですが、彼らも平時は武士という身の上で通常の業務をしていました。
『戦国武将の仕事』戦争ばかりが仕事じゃない
いまから500年前の戦国時代、各地で戦や内乱が頻発し武士たちは己の腕を競いながら、戦場で武功を立てることを第一の仕事としました。
ところが、戦がない平時中は戦国武将といえども武士という身の上で、デスクワークや肉体労働に精を出しました。
中世に該当する戦国時代はその時代背景や工業、文化の発展する具合が反映されていて、私たちの想像のつかない環境下で業務や生活をしていました。
本記事では戦国武将の通常業務について、綴らせていただきます。
キャパオーバーは必然 お城の役割
お殿様が生活をしていたお城という施設は、現代社会におけるところの市役所、警察署、消防署、税務署、裁判所、軍隊など行政や軍事に関する多種多様な業務を司っていた場所でもあります。
基本的に公務員のしている仕事のほとんどを引き受けていました。
戸籍の管理や住民票などの一部の業務はお寺の管轄であったようですが、ほとんどの公務をお城で行っていました。
このようにたくさんの業務を司るお城には下級~上級の武士が出入りして、業務をしていました。
出勤/退勤時間は基本自由
戦国時代の行政は『朝廷⇒室町幕府または太閤⇒守護大名や戦国大名』というピラミッドの上で行われていたというのは形だけで、実情は守護大名や戦国大名が采配を握っていました。
上記でご紹介したとおり、お城の業務は山ほどありました。
そのため、配属される武士たちは大勢おり、お殿様一人ではみんなの勤怠の管理をしていくのは至難の業でした。
部署によってみんなが業務を始める前にやらなければならない業務だったり、みんなが帰宅した後にやらなければいけない仕事だったりと割り当てられる仕事は各々異なりました。
そのため、武士たちは職場であるお城へ出勤/退勤する時間は自由に決めることができたようです。
現代社会では時間が給与の換算基準となっていることが一般的なのですが、戦国時代はいわゆる年俸制であったため、期日までに完了できる見込みがあれば毎日出勤する必要もありませんでした。
また、日本人が時間を意識するようになったのは明治維新で鉄道を利用するようになったことが始まりと言われています。
戦国時代の当時は待ち合わせの時間指定などを「日が高くなったら」、「日が沈んだら」、「どこそこの木の陰が真東にくるころになったら」というかなりざっくりな表現で行っていました。
毎日出勤していなかった
先ほど記述したように武士たちの仕事は多種多様でありました。
武士たちはもともと農家として生計を立てていたので、先祖伝来の田畑があり、そこで農耕をしつつ必要があればお城に出勤するスタイルで仕事をしていました。
その部署によって忙しくなる時期は異なるので、お殿様や一門衆とよばれる側近武士たちの侍従や役職の与えられている武士でなければ、基本は家業の農業を平行して行っていました。
その際たる例が足軽や一揃えと呼ばれる下級武士たちです。
下級武士である彼らは極端にお城に出勤することが少なく、基本武士として出勤するのは戦時か徴税のあるときのみ。
基本的には庶民と同じように田畑を耕し、野菜や稲を栽培して生計を立てました。
さらに、足軽や一揃えという臨時職にあった下級武士たちは農耕の最中でもすぐに戦に駆け付けることのできるよう、田畑にまで武器や具足の一式を持ち運んでいるのが日常でした。
なぜ彼らがそこまでしていたのかと言うと、下級武士にまで戦をするという通達が行われていなかったからです。
しかもこの時代の人々は戦争=稼ぎ時という思考があったので、自ら進んで参加する人のほうが多かったそうです。
給料はお米などの食べ物で
江戸時代まで、武士の俸禄はお金ではなくお米などの食べ物で支払われていました。
「加賀の八十万石」というワードを耳にしたことのある方は多いかと思いますが、これは前田利家が徳川家康より与えられた俸禄の最高年収のことです。
一石は大人一人が一年間に消費すると言われるお米の量なので、前田利家の納めていた領土には80万人の人々が一年間過ごせるほどの財力を有していたことになります。
給料を会社からもらって生計を立てる人々のことをサラリーマンと言いますが、サラリーの語源はソルト。
昔のローマではお金ではなく、お塩を給料として支払っていたことが由来となっています。
内陸にあるヨーロッパの人々にとって塩は貴重で高価なものだったのですが、四方を海で囲まれている日本は塩をとることがさほど難しくないので、人々が必ず消費する主食のお米を給料としていました。
まとめ
戦国武将たちのお仕事について、紹介させていただきました。
当時の社会は共産主義よりな面があり、下級武士や庶民のやる気は戦時のみで、子孫が必ず城勤めできることの約束されている中級以上の武士たちも自分のノルマがクリアできればそれ以上に成果を上げようとすることはありませんでした。
そのおかげもあって、通例では一生冷や飯食らいだった豊臣秀吉などの庶民出身の武士やお寺に預けられて人質候補になっていた前田利家のような次男三男が頑張って、序列や秩序でマンネリ化した日本の社会をガラッと変えてみせました。
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