一般的な戦国武将のイメージは、強そう、怖そう、厳しそうといったように昔はよくいたカミナリ親父のようなおじさんを想像してしまいます。
しかし、戦国武将たちが送った手紙には上司に泣き言を言っていたり、家族や友人に愚痴や愛情を表現している内容の手紙を書いています。
抱腹絶倒な戦国武将の手紙
戦国武将は上司や部下、友人や家族などに手紙をまめに書いていました。
現在のようにSNSやメール、電話のない時代ですので、手紙は最も手軽な連絡ツールでした。
戦国武将の一般的なイメージは、強そう、怖そう、厳しそうといったような昔はよくいたカミナリ親父の典型的な様子を想像してしまいがちです。
ところが、戦国武将たちが家族、同僚、友人宛に書いていた手紙の内容を見ると、愚痴や泣き言、愛情を表現していました。
私たちが家族や友人、同僚とやりとりしているような他愛もない連絡を手紙でしていたのです。
戦国武将たちの手紙は古文書に分類されていて、読み方のセオリーや文語をマスターしていないと、なかなか内容を読み解くことが難しいです。
そのため、私が専門書などで理解した内容を独自に口語訳して記事にまとめました。
武田信玄が恋人(男性)に宛てた手紙
武田信玄は衆道(同性愛)の趣味があった武将です。
しかもけっこうガチ(本気)の衆道で、イケメン家臣やイケメン商人の男性を恋人として囲うことがあったそうです。
実例では武田信玄の小姓出身の武将高坂弾正昌信がアブナイ関係だった家臣のひとりと言われています。
そして今から紹介する手紙は男性の恋人に向けて送られた手紙です。
一、わしが言い寄ると、弥七郎は腹が痛いといつも言って逃げた
一、だからわしは弥七郎と寝てない。本当だ。
一、言い訳するとかえって怪しまれるかもしれない。それでも、わしは神に誓って嘘はついてない。信じてくれ。
7月5日 晴信(信玄の改名前の名前)より 春日源助さまへ
北条氏康が人質に差し出した息子へ送った三箇条
北条氏康は上杉謙信と軍事・政治的な同盟を結ぶため、泣く泣く三男坊を人質として差し出しました。
やはり父親として他人の家に預けている息子のことは大変心配だったのでしょう。
こちらで紹介する手紙以外にも体調を伺う手紙や人伝いに聞いた息子の活躍を褒める内容の手紙を送っています。
・酒はあさげ(朝食)に飲むもので、三杯までが最も良し
・お前の許可なく外出する家臣は解雇しろ
・家臣が酔っぱらい他人に迷惑をかけないように厳しく躾けろ
もしもお前がこれを守っていないと俺が聞いたあかつきには
親子の縁を切るぞ
8月10日 三郎(後年の上杉景虎)へ
武田勝頼から後方の城の留守居役をしている家臣への手紙
武田信玄の死後、武田家当主を引き継いだのはなんと四男でしかも妾との間に生まれた武田勝頼でした。
そして勝頼が当主になると織田信長は本格的に甲斐へ侵略作戦を展開します。
そして勃発したのが長篠の戦いです。
これは長篠の戦いの最中に武田勝頼が後方支援のため城の留守居を任せた三浦氏からもらった手紙への返事です。
長篠合戦の心配をしてくれてありがとう。こっちは順調だよ。
織田と徳川が背後に回って待機しているが、ビビッてなにもできずにいるよ。
これから一気に蹴散らしてやるからな。
それより、そちらは重要な拠点なんだから十分注意してね。
あと、お土産ありがとう。
5月20日 勝頼より 三浦左馬助殿へ
滝川一益がお茶友に宛てた手紙
滝川一益は用兵、槍術に長けた武将でしたが、織田信長が奨励した茶の湯に傾倒した文化人でもありました。
お茶に対する情熱は熱く、滝川一益主催でお茶会を実施したり、織田信長に戦のご褒美として茶器をねだるほどでした。
しかし、織田信長は「はぁっ?(威圧的な表情)」と一蹴して茶器ではなく、当時はあまり人が住んでいなかった関東の領地を与えました。
これから紹介する手紙は関東に引っ越してしばらく経過したときに滝川一益がお茶友に宛てた手紙です。
贈り物ありがとう。まったくもって関東は地獄のようだ。
宇治も遠いし、これからお茶続けていけるか、正直わからない。
まず道具もなければ、炭も釜もない。水しかない。
でも何も無さ過ぎて、お茶寄せをするしかない。
あの小茄子の茶入れ(織田信長所蔵の品)欲しかったなぁ。京都に行きたい。来年は絶対行く。
話したいことはいっぱいあるのだけれど、忙しいからこのへんでやめる。
4月4日 一益より 大郎五郎くんへ
島津義久による九州で戦を続けていることの言い訳
島津義久とは鬼島津こと島津義弘の兄で、九州で最も大きな勢力を誇る島津家の当主です。
豊臣秀吉が関白に就任すると、全国各地の大名にお触れを出して侵略行為を極力しないように命令しました。
ところが九州地方は本州とは別世界でそんな流暢なことも言っていられない状況でした。
そうした中、島津義久は秀吉に警告され、それを友人関係にあった細川忠興の父に愚痴をこぼしました。
この手紙は関白様に読んでもらうつもりで書いた。
しかし、羽柴とかいう奴、どこの生まれかも定かでないとか。
島津家は由緒正しい家柄だぜ。それなのに羽柴を関白様と呼ばななければいけないなんて
笑っちゃうぜ。というわけで細川殿に手紙を書きました。
関白が言うにはもう九州で戦をするなだってさ。
でもちょっかい出す奴がいるからそれって無理でしょう?
おれはなんにも悪くありませーん。てなわけでよろしくお願いします。
義久より 細川兵部入道殿へ
まとめ
戦国武将たちが家族や友人、同僚に宛てた手紙を紹介させていただきました。
武田信玄が恋人(男性)に弁解していたり、成人前の息子に飲酒を進める北条氏康の手紙は意外性があってなかなかおもしろいと思いませんか?
戦国武将たちはこのようにつまらないことでも手紙に書いてコミュニケーションをとっていました。
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