人々の上に立つものは時に優しく、時に厳しくその務めに当たらなければなりません。
処刑の程度が酷すぎても人々の反感を買い、軽すぎても模倣犯の出現やつけあがる人々をむざむざ見過ごすことにもつながってしまいます。
さてこの記事では、このような課題が常につきまとう戦国大名たちが罪人を裁き、それを減らすために行った処刑についてご説明します。
戦国大名が処刑を下すことの意味
中国から伝わることわざに「泣いて馬謖を斬る」という言葉があります。
このことわざは三国志のある章が由来となっており、三国志を読んだ方であれば目に涙を浮かべて諸葛亮孔明が泣く泣く処刑を下した名シーンを想像したことでしょう。
「泣いて馬謖を斬る」は、どんなに目をかけて可愛がっている部下であっても、罪を犯した場合は必ず処罰するべきという意味があります。
諸葛亮孔明のように功績のある者には褒美を与え、罪を犯した者はたとえ愛弟子であろうと容赦なく断行するという姿勢は人々の上に立つ者の見本と古来より言われてきました。
恐らくそのことを少年時代には既に学習していたであろう戦国大名たちは、謀反を起こした家臣や自身の暗殺を企てた者どもを処刑することによって二度と同じような罪を繰り返す者が現れないようにする必要がありました。
その為には厳しい罰や惨い処刑を行って天下にその罪がどれだけいけないことであるのかを示す必要がありました。
罪の重さによっては、罪人の家族や親族までもが処刑の対象となり今思えばやりすぎな処刑も多々見られます。
戦国大名が下した処刑の方法
戦国大名は罪人を処刑し、それを公開することによって処刑を目撃した人々が罪人の犯した罪を再度繰り返そうとする意気を削ぐことを目的としました。
命を奪うだけでも相当残忍なことなのですが、今日死ぬか明日死ぬかがわからなかった戦国時代はただ殺されるだけではあまり効果がなかったようです。
それもそうでしょう。
生まれた子供の大半は7歳まで生きられないので、戸籍に登録されるのは7歳からであるし、毎年各地で戦争が相次いでいるので斬られた、刺されたで命を落とすことはみんなが覚悟していたことなのです。
次に戦国時代に戦国大名によって下されることの多かった処刑の方法をご紹介していきます。
切腹
切腹は腹に刀を突き刺して斬ることによる自殺方法です。
切腹はすぐに死ぬことができないので、介錯人が首を斬り落としてとどめを刺しました。
戦国時代において負けを覚悟したときに、敵の手で討ち取られないために切腹が行われました。
武士にとっては敵の手によって命を落とすことは武力が敵に及ばなかったことに直結し、末代までの恥とされていたのです。
また、籠城戦の際においても敗北した場合に城主が切腹することを条件として城内の兵士を救う措置をとることが一般化されました。
切腹は武士の尊厳を守るための死に方だったので、切腹だけで済まされるならば処刑としては軽い方であったと言われています。
磔(はりつけ)
柱に罪人を縄で縛りつけて、槍で突き殺す処刑方法です。重大な罪を犯した者に対する公開処刑の意味もありました。
1578年に荒木村重が織田信長に対して謀反を企てた有岡城の戦いで、織田信長は激怒し、人質122人を磔の刑に処しました。さらにそれだけでは飽き足らず、荒木村重の妻子全員と他500人以上を3棟の建物内に閉じ込めて焼き殺すという処刑を行いました。また、より罪人を苦しみを長引かせるために、逆立ちした状態で磔にする逆さ磔という方法も取られました。
市中引き回しの刑
資材となる罪人を馬などに乗せ、罪状を書いた立て札とともにしないの民衆へのさらし者にして刑場まで連行しました。
引き回しの最中には罪人に対して民衆が罵詈雑言を浴びせながら生ごみや石が投げつけられることが当たり前に行われており、死ぬ前に相当な屈辱を与えられました。
また、江戸時代になってからは一般的な刑罰となりました。
獄門
獄門は死罪となった罪人の首を公開することで、さらし首とも呼ばれました。
合戦で討ち取った首級の首は台に乗せられて一般に公開されました。
豊臣秀吉に仕えて茶の湯を大成させた千利休は、秀吉の作法を注意したことで秀吉の怒りを買ってしまい、切腹した後に獄門に処されました。
一族皆殺し
武将が謀反などの大罪を犯して死罪を命ぜられたときは、その子供や妻、一族郎党にまで処刑の対象となりました。
一族を皆殺しにする理由としては、中国の春秋戦国時代から続く”ある考え方”が要因となっています。
その考え方とは将来その子供や親族、それに仕えていた郎党が恨みを忘れず必ず仇を討つだろうという考えです。
日本でも前例として保元・平治の乱で平家と敵対した源義朝の子、源頼朝が20年後に挙兵して平家を滅ぼしたので、無視することのできないものでした。
牛裂きまたは馬裂き
牛や馬に四肢を縛りつけ、走らせることによって罪人の身体をバラバラにして殺害する処刑です。
中国から導入された処刑方法で、古くから日本でも執行された処刑方法でした。
この刑に処される者は主殺しや虐殺者などの重罪人に課せられる処刑で、最も重い処刑として数えられるひとつです。
織田信長と徳川家康がおこなった残忍すぎる処刑
悪の権化のように後世にその残忍性が伝えられている織田信長と、優しそうなイメージの徳川家康も行った処刑に鋸挽き(のこぎりびき)の刑という恐ろしい処刑があります。
鋸挽きの刑は縛りつけた罪人の首を鋸によって被害者の親族や通行人に1~2回ずつ挽かせてじわじわといたぶる処刑です。
織田信長が行った鋸挽きの刑
甲賀忍者の杉谷善住坊は火縄銃で織田信長を狙撃して暗殺しようとしましたが失敗し、捕縛されました。
そして、杉谷善住坊は生きたまま首から下を土中に埋められ、鋸挽きの刑を受けることになりました。
杉谷善住坊は絶命するまでに3日間にわたって首を鋸で挽かれました。
徳川家康が行った鋸挽きの刑
徳川家康の場合は親子ともども信用の厚かった大賀弥四郎という家臣にこの刑を断行しました。
大賀弥四郎の罪状は武田勝頼との密通です。
徳川家康は武田信玄と対立した三方ヶ原の戦いで、ほぼ壊滅状態に追い込まれ大敗を喫します。
弥四郎が武田勝頼と内通していたのが、その三方ヶ原の戦いが開戦される約2カ月前のことで徳川軍がどのような準備をしているかや合戦最中にどのような動きをしているのかを逐一報告していました。
弥四郎は同僚とひと悶着を起こして家財を没収され、その中から勝頼とやりとりしていた書状が見つかったため、罪が露呈することになりました。
信頼の厚い家臣から裏切られたことを知った徳川家康は大激怒し、鬼と化しました。
矢四郎は馬に乗せられ市中を引き回されて刑場へ連行されました。
すると、連行された刑場には弥四郎の妻と4人の子供たちがすでに磔台に縛りつけられていました。
それをよそ目に弥四郎の刑は執行されます。
弥四郎はまず両足の腱を斬られ、両手の指10本を切り落とされた後、首まで地中に埋められました。
その彼の顔の前には切り落とされた指が並べられ、竹製の鋸で首をゆっくりゆっくりと挽かれていきました。
弥四郎の家族は夫・父親が鋸で首を挽かれているのを見ながら腹を槍で刺されて絶命し、弥四郎は絶命するまでの7日間、首を鋸で挽かれる苦痛に苦しみました。
まとめ
切腹、一族皆殺し、獄門などは誰しもが耳にしたことがあるだろうと思われる処刑方法です。
戦国大名たちは命をいつ落とすかわからないとなかば開きなおりかけている人々が「こんな死に方だけはしたくない」と思わせる処刑方法を執り行わなければ見せしめということにはならないので、処刑の残忍性を演出する必要がありました。
織田信長のように残忍なことで知られる戦国大名は恐怖によって人々を支配することが手っ取り早いと考え、より残忍な処刑を行うことで、人々が歯向かう気を起こさせないように先手を打っておくこともしていたようです。
織田も徳川もただのクズ。
織田も徳川も死後に地獄に落ちたんじゃねえの。
奥さんや子供まで殺害することねえだろが!!!
首切りだとか磔だとか、ホント狂ってた時代。