領民からの税だけでは足りない!税収以外の戦国大名の収入源とは?







戦国時代は、各地で戦を繰り広げ戦国大名たちの出費は膨大でした。

戦国大名たちの主な収入源は領民たちから徴収する税でしたが、領民たちの税だけではまかないきれない事も多く、お金の入口を他にも見出す必要がありました。

 

こちらの記事ではそんな税収だけでは収入が足りなかった大名たちの税収以外の収入源についてご紹介します。

 

税金だけでは追いつかない戦国大名の出費

戦国時代は自国の運営だけでなく、頻繁に戦をしなければならなかったので、軍事費や食費にあてる費用が膨大でした。

戦国大名の主な収入源は自身の治める領民たちから徴収する税収ですが、それだけでは収入が費用になかなか追いつくことができませんでした。

 

簡単に収入を増やす方法は税を重くすることですが、税を重くすると人民の流動化や反乱の恐れがあったため、それは最終手段としてとっておかねければなりません。

そこで戦国大名はあの手この手で収入を増やそうとしたのでした。

以下にその方法をご紹介します。

 

勘合貿易

 

勘合貿易は室町幕府の将軍家がおこなっていた明との貿易で、勘合と呼ばれる割符をつかって明が発給した渡航証明の札としたことからその名がつきました。

明からは銅銭や絹織物などがもたらされ、幕府の大きな財源となりました。

戦国時代になると、周防の大内氏管領の細川氏が中国からやってくる勘合船を渡航させ、そこで上げた利益を財源としました。

 

南蛮貿易

南蛮貿易はポルトガルの商人との間で行われていた貿易で、九州の諸大名、特に薩摩の島津氏がこれを活発に行いました。

また、織田信長豊臣秀吉も南蛮貿易に力を入れており、キリスト教の布教活動や舶来品の売買を斡旋しました。

その後、当時イスパニアと呼ばれたスペインが太平洋航路を開拓して、ルソン島のマニラを本拠地として日本と貿易をしました。

徳川家康はスペインとの貿易に積極的で、京都の商人だった田中勝介を当時のスペイン領であるノビスパン(現:メキシコ)に派遣していました。

 

鉱山開発

領内に金山や銀山を所有する大名は、その鉱山開発を積極的に行いました。

甲斐の武田氏は甲斐北東の黒川金山、黒川の東にある丹羽山金山、南部の湯之奥金山などで、金山衆と呼ばれる職人が露天掘りによる採掘を行いました。

 

また、上杉氏は越後の鳴海金山の開発を行い、1598年の記録によれば、上杉景勝が秀吉に献上した金は全国の6割に相当し、その半数が鳴海金山から採掘されたものであると言われています。

 

関銭

 

関銭は関所と通行する人馬や荷物、舟に対して課せられた通行料です。

当初は通行する荷物の価格の1%が基準でしたが、通行の安全を保障するという意味もありました。

後にそれが多様化していき、通行料の名称は徴収する場所により『津料』、『山手』などと呼ばれたり、徴収の目的によって『渡賃』、『兵士米』、『升米』などと呼ばれるようになりました。

しかし、商売の弊害となることもあり、織田信長や豊臣秀吉は、関所を撤廃して関銭は消滅していきました。

 

戦争による略奪品の売買と人身売買

戦のあとで兵士が人や物を略奪する行為を乱取りと言いました。

当時の兵士は農民出身者が多く、戦地での略奪が目的で戦に参加する者もいました。

また、戦国大名も勝利のときの褒美として乱取りをさせていたり、家臣団が乱取りすることもありました。

戦利品が女、子供の場合は、売り払ったり奴隷にしました。

当時の人身売買の相場は2貫(約30万円)でしたが、大量に乱取りされたときは25文(約4000円)にまで値が下がったと伝えられています。

 

かつてキリスト教を布教するためにポルトガルから渡来したルイス・フロイス

彼の記した「日本史」という本には、島津氏大友氏間で勃発した耳川の戦いの様子が描かれています。

その戦で行われた乱取りについて彼は、次のような記述を残しました。

「薩摩がおびただしい数の人質、とりわけ婦人と少年・少女たちを拉致した。捕虜となった人々は、薩摩や肥後に連行された後、羊の群れのように、市場を歩かされ道すがら売られていった」。

 

礼銭

礼銭が本来意味していたのは、室町幕府の将軍家で慶事(お祝い)があった際に、地方に派遣された守護大名や寺院が将軍家に贈ったご祝儀のことをさしていました。

戦国時代となると、それが庶民の知るところとなり、礼銭は商人や領民は戦国大名にさまざまな権利を主張して認めてもらうために収める袖の下(賄賂)を意味するものへと変化しました。

また、堺の商人が瀬戸内海で安全に交易活動を行うために、村上水軍に支払った礼銭の金額は年間で2000貫以上と言われています。

 

敗戦国からの賠償金

 

戦に勝利すると敗戦国に賠償金を請求することができました。

これは経済的な制裁を加えることによって、近い将来相手側が軍事活動を行いにくくする目的と国力を衰退させる目的がありました。

臣従したくない大名は、経済的に苦しくても賠償金を支払ってなんとか自国を存続させることができるので、規模の大小に関わらず賠償金のやりとりは頻繁に行われていました。

 

臣従した大名からの献上品

 

小さな国の大名は強力な国力を誇る大名の傘下に入って、国力の維持とお家存続を最優先しました。

大きな国が味方になれば、それと同時に軍事的な条約を結ぶことにより、小さな国でも攻められにくくなります。

そのために、臣従した大名たちは上位者にあたる大きな大名に自国でとれた特産品や人質を献上品として贈って日頃のお礼やご機嫌伺いをしました。

 

まとめ

 

税収以外の戦国大名たちの収入源について紹介しました。いかがだったでしょうか?

けっこう腹黒い心づもりで金銭の搾取や人身売買が行われていたことがわかります。

それでも時には経済状況が悪化して、民たちが一揆をおこすほどの税収を得ようとしていたわけですから、戦国時代はなにかとお金のかかる時代であったようです。










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