宗教は信じる者に生きる活力を与え、多くの人々が信頼を置いているものです。
現代では宗教を基盤として営利活動を行う宗教団体や、国会で多くの議席を得ている政党をバックアップするなど、宗教の持つ力は計り知れません。
しかし、今から数百年前の戦国の世、戦国時代の宗教事情についてはどうでしょうか。
戦国の世にとって宗教とはどういった存在だったのでしょうか。
実は戦国時代では既に宗教は人々にとって非常に重要な存在でした。
戦国大名にとってもこの『宗教の力』は無視できない程大きな力になっていたのです。
この記事ではそんな戦国大名と宗教の関係について解説していきたいと思います。
戦国大名でさえ宗教の力に頼らざるを得なかった
歴史上では、宗教はときに悪い目的にもよい目的も権力者たちに利用されてきたという背景があります。
それではなぜ権力者たちは宗教を利用していたのか?
その理由はただ一つ。
多くの人々が宗教を信じており、人々を説得してまとめ上げるのに最適な位置づけにあったからです。
戦国時代よりも昔、まだ、大和政権の権力が西日本までにしか及んでいなかった飛鳥時代には、蘇我馬子(そがのうまこ)や蘇我蝦夷(そがのえみし)など、聖徳太子と力を合わせて国を治めた蘇我氏が、仏教を取り入れ各地の豪族を束ねることによって円滑な国営を実現させました。
また、国は変わりますがお隣の中国では、弥生時代に太平道(たいへいどう)という宗教が当時、外戚(がいせき:皇帝の母方の親族)や宦官(かんがん:男性器を切除された男性の官吏)による汚濁政治(おだくせいじ:汚れ濁った酷い政治)に怒りを爆発させた人民を束ねて黄巾党の乱を起こしました。
黄巾党の乱は各地で勃発し、完全に鎮圧するまでに約15年もの歳月を費やす大規模な反乱でした。
この乱では官軍だけでは手に負えなくなり、諸侯の私兵や義勇軍(志願兵のみで構成された軍隊)を募らなくてはならないなど、凄まじく大規模な反乱となりました。
このように、宗教が人々に与える団結力や活力は計り知れないところがあります。
これらの前例を真似たのかどうかは定かではありませんが、戦国時代を生きる戦国大名たちも領民をまとめ上げる為に宗教の力を利用しはじめます。
下克上の風潮を語る戦国大名でさえ領民たちからの信用や資金、物資などを得るために宗教の力に頼らざるを得なかったのです。
戦国時代に日本国民が信じた3つの宗教
日本という国は神道、仏教、キリスト教が入り混じる多神教の国家です。
神道
神道は国造神(くにつくりのかみ)イザナギノミコトとイザナミノミコトが日本の国土を創造する以前から存在していたと言われる宗教で、日本最古参の宗教になります。
仏教
仏教は飛鳥時代に聖徳太子が国を運営する官吏(かんり)たちが治めておくべき学問であるとして、中国に留学させるために派遣した遣隋使(けんずいし)、遣唐使(けんとうし)たちによって持ち帰られました。
大化の改新以後、天智天皇が公地公民を進めるため寺院に国民を入信させ、寺院が国民の戸籍の管理・運用することによってほとんどの日本人が仏教徒になりました。
キリスト教
キリスト教は戦国時代真っ只中にフランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスなど、南蛮地方から渡来してきた宣教師たちによって、日本全国に布教されました。
キリスト教は、神道の八百万の神(やおよろずのかみ)や仏教の観音、明王、如来など様々な神様がある宗教とは異なり、イエス・キリストという唯一神を信じればよいという単純さ。
お供え物やお布施などが必要ないというコストパフォーマンスのよさから多くの人々が信じました。
戦国時代に影響力の強かった宗派
戦国時代になると、仏教が民衆に浸透して信仰を集めるようになりました。
それ以前は、延暦寺などでごく一部の門に限られていたのですが、鎌倉仏教と呼ばれる浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、時宗、法華宗、日蓮宗などの新興宗教が力を持ち、社会に大きな影響を及ぼしました。
戦国大名は領国経営のために、さきほど紹介したような多くの信者をもつ宗派の寺院を保護し、寄進(きしん:食べ物やお金を寄付すること)を行うようになります。
徳に臨済宗や曹洞宗など坐禅を重んじる宗派である禅宗との結びつきは強く、武田氏、今川氏などは領国に臨済宗の有力な寺院を建立しました。
武田氏の菩提寺である恵林寺、今川氏の菩提寺である臨済寺がそれの代表格です。
比叡山にある延暦寺は、京都の鴨川の東側に大きな領地を有し、奈良県の興福寺は大和国一国の荘園のほとんどを手中におさめていました。
石山本願寺などは港や土塁で囲まれた寺町を有する城郭都市となっていました。
このような寺社の領国内では治外法権であり、権益を独占していました。
これに対して織田信長は、激しい弾圧を加えるようになります。
それが、比叡山延暦寺焼き討ちや石山合戦といった有名な仏教徒大虐殺事件を生むことになります。
また浄土真宗もたびたび一揆をおこしたため、戦国大名とは折り合いが悪く、各大名が鎮圧を断行する結果となりました。
一向一揆で戦国大名を悩ませた一向宗
一向宗とは、浄土真宗から分かれた本願寺を母体とした宗派で、僧侶を中心に講と言われる相互扶助組織を確立していました。
この共同団体は、武士の地侍や農民を取り込み、近畿地方、東海地方、北陸地方などで勢力を拡大していきました。
そのため戦国大名とは激しく対立することが多く、北陸では1488年の一向一揆で守護の富樫政親を討ち取り、加賀一国を約100年間にわたって支配しました。
織田信長、徳川家康などの大名は、この勢力に対して弾圧を強めました。
戦国大名と宗教勢力の関係
仏教には空海が開いた真言宗、最澄が開いた天台宗、そして上記で示した多くの宗派があります。
宗派が異なれば、お釈迦様が説いたと言われるお経の解釈が異なり、その宗派によって最も大事だといわれるお経や教えも異なります。
そのような考えの違いからなのか、戦国大名と密接につながりを深める宗派、反対に断固敵対する宗派、中立的な位置にいて当たり障りのない対応をする宗派が出てきました。
それでは以下に宗教勢力がどのように戦国大名と関係していたのかを示します。
禅宗(臨済宗や曹洞宗)
禅宗は戦国大名と非常に友好的な関係を結び、戦国大名の子供教育機関として入門を受け入れることが通例でした。
また僧侶が参謀や大名の話相手となる御伽衆(おとぎしゅう)に所属することもありました。
今川義元に仕え、彼の行政を支え、戦でも助言をしていた雪斎僧正は臨済宗の僧侶です。
戦国大名の奥様方は夫の死後出家して夫や犠牲となった部下たちの供養を行いました。
それらを受け入れたのも禅宗が多かったようです。
時宗
時宗と戦国大名の関係は友好的でしたが、時宗自体は大きな勢力を持っていませんでした。
時宗は医学の知識に長けた僧侶が多く在籍しており、戦で負傷した者たちの手当てを行う僧医が時宗から輩出されました。
真言宗・天台宗
真言宗と天台宗は状況に応じてその立場を変える姿勢をとりました。
戦国大名によってはそれを庇護したり、政治に介入するために敵対関係になることもありました。
浄土真宗・法華宗
独自の勢力を築き、戦国大名とは常に敵対関係にありました。
各地で一揆をたびたび起こして、戦国大名たちと抗争することが多かった宗教勢力です。
戦国大名が支援を惜しまなかったキリスト教
イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルが来日してからというもの、日本へのキリスト教の布教活動は活発に行われました。
宣教師たちは各地の戦国大名と謁見し、領内で布教活動をすることの許可や戦国大名御自らの入信することを勧め、キリスト教を広く天下に布教しました。
戦国大名たちは当初は南蛮貿易の利益を得る目的もあり、キリスト教の布教を快く承諾していました。
南蛮寺と呼ばれる布教活動の拠点を設けたほか、安土・有馬・山口などにセミナリヨという日本人の聖職者を育成するためのイエズス会の教育機関を設立するなどの援助も行いました。
まとめ
戦国大名と宗教の関係について解説しました。
戦がすべてだと豪語していた戦国大名でさえ、人々を束ねるため宗教の力を必要としました。
宗教は人々の心の支えとなりますが、時として決死の覚悟を与える恐ろしい原動力となりました。
戦国大名にとって宗教と良好な関係を結ぶことは、領国経営の安定をはかるひとつの手段であったことは間違いないでしょう。
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