~戦国大名の打ち出した生き残り戦略~いかにして自国を存続させるか




戦国大名たちがどのような戦略で戦いを繰り広げていたのかは、それぞれの戦国大名のゴールがどこにあるかによって変わってきます。

戦い続けるか、より強い大名にぶら下がってNo2以降に甘んじるか。

はたまた、限界を決めてその最大限を実現させるのか。

といった国の存続をかける戦略は何通りもあります。

 

そのような戦国大名の戦略について、本記事では解説していきます。

 

戦国大名の下した世渡り戦略

 

戦国大名たちはいかにして我が国を存続させるかを生涯悩み続け、領土拡大のための侵略行為やより強力な大名への臣従、仕える主君を変える(転職)という選択をしました。

戦国大名たちがどのような戦略で戦いを繰り広げていたのかはこのようにゴールをどこに置くかで変わってきます。

まず大きくは「天下を取る意思があるか・ないか」によって大名たちの生き残るための戦略は雲泥の差があります。

私が今まで見聞を重ねてきた文献などを見ると戦国大名の戦略は次の4つに分類することができると考えています。

 

  • 狙うは天下のNo.1戦略
  • 領地最大化戦略
  • 安全第一臣従戦略
  • 御家存続優先戦略

 

狙うは天下のNo.1戦略

 

まずは「狙うは天下のNo.1」の戦略から見ていきましょう。

こちらの戦略の典型的な例は織田信長です。

織田信長は1568年、正親町(おおざまち)天皇から綸旨を賜り、入洛の軍事行動を正当化したうえで、足利義昭を警護して最後の室町幕府将軍へ就任させました。

織田信長の戦略は天皇を味方につけてその権威を利用し、天皇を頂点に定義して朝廷がある京都を中心として天下に号令を下す勅命を欲しました。

この方法を取った織田信長は「天下布武」を掲げて足利義昭の室町幕府就任をたすけて、上洛し天下統一の名乗りを上げました。

 

織田信長の死後、その座を引き継いだ豊臣秀吉は己に反抗する勢力に徹底して抗戦しつつ、朝廷の天皇陛下に天皇に代わって政務執る関白の職位を要求しました。

それが叶うと今度は関白や天皇の上で上皇や法皇に匹敵する太閤という職位を要求してその座に着きました。

これにより、名実ともに日本のトップにたった一代で成り上がったのです。

 

 

 

領土最大化戦略

天下取りの意志はなくとも

天下取りの意志はなくとも、戦国大名には戦わざるを得ない事情がありました。

家臣に知行を与えるために他国へ侵略を繰り返すことで、自国を守ることができない君主は家臣の下克上に遭遇してその場を奪われる危険性がありました。

 

そのために領土の最大化を目的とした戦国大名もいました。

武田信玄は「国を取り広げてこそ家臣に褒美を与え、喜ばせられる」と豪語していました。

武田信玄のほか、土佐の長曾我部元親、薩摩の島津義久、安芸の毛利元就らがその戦国大名にあたります。

次に説明するのは、領土最大化戦略の実例です。

 

領土最大化戦略はある程度限界点を設定してその中で最大限に自国の勢力を拡大させようとした戦略です。

明確な言葉として打ち出した戦国大名は土佐の長曾我部元親です。

「我が四国の蓋になる」と公言すると、1577年に土佐統一を果たし、その後雲辺寺住職に四国統一の夢を語り、1585年にその夢を実現させました。

 

 

 

安全第一臣従戦略

身の程をわきまえたうえで戦い続けた小大名

小大名となると、目指せ天下No.1戦略や領土最大化戦略は夢のまた夢でした。

自力で他国に侵攻することや生き残りをかけるのはリスクが大きすぎるためより強い大名への臣従を誓い、自領が守り切れないと判断したら惜しみなく君主を何度も変えることも普通のことでした。

 

安全第一臣従戦略は自分たちの力量を自覚し、天下人により近い大名に臣従してNo.2になることを常に狙うという戦略です。

代表的な戦国大名としては、前田利家や蒲生氏郷などが該当するでしょう。

 

前田利家は、織田信長の小姓として仕え、豊臣政権下では五大老がひとりなって、加賀の百万石の基礎を作りました。

また、蒲生氏郷は、当初織田信長に仕えて本能寺変で織田信長がこの世を去ると、豊臣秀吉に臣従しました。

そして、小田原城攻めの後、伊達政宗が大遅刻により会津を没収され、その代わりに会津42万石に加増転封されたのが蒲生氏郷でした。

 

御家存続優先戦略

 

小大名の場合、隣国の脅威から自国を守ることが何よりも優先でした。

御家を存続させるために叔父と甥っ子が、兄と弟が、父と息子が敵同士となりどちらか一方が確実に生き残ることを担保する戦略に出たり、自国を守るためにこの方の下では無理だと判断した時点で主君を変えたり、女の魅力(ハニートラップ)を活用して、娘や姉妹、場合によっては母親までも利用してなんとか生き残った戦国大名たちもいました。

例えば、真田幸村の父真田昌幸は当初は武田信玄の家臣でしたがその後は織田信長に仕え、北条氏、徳川氏、上杉氏を天秤にかけて渡り歩きながら豊臣政権下で所領安堵を約束されました。

また、藤堂高虎は生涯で7度も主君を変えた戦国大名です。

この鞍替えの多さは、戦国大名最多記録を保有しています。

 

まとめ

 

戦国大名にとっていかにして我が国を存続させるかは生涯の悩みの種でした。

幕府や朝廷から一族孫々の存続と栄華を約束された公家や守護大名とは異なり、他国の大名との戦いで負けるだけでなく家臣からの謀反にも常に用心しなければならないからです。

この時代に生まれた小大名たちは実に涙なくして語ることのできない苦肉の策を使って生き残りました。

 

NHK大河ドラマ「真田丸」では親VS子、兄VS弟が一辺に訪れた話が描かれています。

江戸幕府が開かれて滅亡した大名家、存続した大名家がありますが、私は当時の戦国大名たちに「あなたの選択は間違いじゃない」と一声かけてあげたい気分でいっぱいです。












よろしければシェアお願いします!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です