“戦国時代”戦国大名が行っていた人質交換とはどういうものだったのか?







戦国時代、全国各地の大名たちは生き残るため、そしてお家を存続させるためにより強力な大名に親兄弟、子供を人質として送りました。

政略結婚とは、実質は人質交換のひとつの手段です。

要するに戦で負けた相手方の大名や同盟を結んだ大名へ忠誠を誓う証として親族の者を人質に差し出したのですが、その実態はどのような者だったのでしょうか?

 

戦国大名同士が行った人質交換

 

戦国大名たちは己の保身やお家存続のためにより財力や軍事力を持った大名と手を結びました。

それらは同盟といい、不可侵攻の条約や援軍の約束など戦乱の世を渡っていくためには避けては通れない約束事でした。

そしてその約束事を締結させるためには契約した証となる書状、当事者同士がその書状に記す署名花押し(サインのようなもの)、血判(血で拇印を押した書類)のほか、双方にとって約束を違えることのないように差し出し合うものがありました。それは人質です。

 

また、人質は戦争した際に敗戦国の大名が損害賠償として差し出すもののひとつでもありました。

さらに言うと、家臣が君主に忠誠を誓う証として差し出したり、戦時中のミスや謀反に加担した際死罪を免じる代わりに差し出すこともありました。

 

人質出身の大名といえば徳川家康

人質出身の大名として最も有名な人物は江戸幕府初代征夷大将軍の徳川家康でしょう。

 

徳川家康は元の姓を松平。幼名は竹千代で、元服した際には元康と名乗りました。

徳川家康の父の松平広忠は三河を治める小さな大名でした。

三河は上を今川家、周辺を尾張の織田家に囲まれたところに位置しており、軍事的に相当不利な状況にありました。

そのため松平広忠は嫡男の竹千代(のちの徳川家康)を人質に差し出すことを条件に今川義元と同盟を締結したのです。

ところが、竹千代が現在の名古屋まで送られている最中に事件が起こります。

なんと織田信長の父、織田信秀が今川領の那古野城を攻め取って護送中の竹千代を戦利品として拉致したのです。

 

その後竹千代は織田信長とともに幼少期を過ごすこととなるのですが、父の松平広忠は相当焦りました。

これでは同盟が締結したことにならないからです。

松平広忠はそのあと幾度となく織田家と対立し、織田信長の兄の織田信広を捕虜にしました。

織田信秀は信広を取り返すため、松平広忠と和睦を結び、信広と竹千代を交換しました。

これにより約束どおり今川家に竹千代を差し出すことができたのですが、松平広忠は家臣の裏切りにあい命を落とします。

享年24歳、あまりにも早い生涯でした。

 

政略結婚で人質交換

同盟関係を強固にするために行われたのが政略結婚でした。

ある大名の娘を同盟関係にある大名が迎え、義理の親子となり妻は正室にするのでその子供は生まれた順番は遅かれ早かれ嫡子となります。

 

難しいので整理してみましょう。

同盟関係にある大名同士が親子関係になり、義父となった大名は娘を嫁がせるので裏切れない。

妻を迎えた大名も同盟の相手が義理の父にあたるので裏切れない。

義父となった立場からすると、もし万が一自分が倒れても自分の孫が同盟相手の家督を継承するので、存続できる。

というメリットがありました。

 

そしてこのよい例が美濃の斎藤道三と尾張の織田信長です。

斎藤道三は娘の帰蝶(濃姫)を信長の正室として嫁がせました。

信長もそれに応じて結婚し、のちに自分の妹を斎藤道三の側室として嫁がせました。

つまり斎藤道三から見た織田信長は義理の息子であると同時に義理の兄でもあり、織田信長から見た斎藤道三は義理の父であると同時に義理の弟でもあるのです。

お互いに対等な立場を形成しようとしていたことがわかります。

 

母親を人質にして無罪放免

 

戦国大名たちの間では人質のランクがありました。

嫡子が人質として差し出されるケースは非常に稀なケースですが、生まれた順番が早ければ早いほどそのランクは高く、人質を送られた側も丁重な待遇をしなければなりませんでした。

そして最上級の人質が自身を生んで育ててくれたお母さんです。

 

戦国大名たちの日常的な問題となっていたのが跡目争いなどの御家騒動です。

武田信玄や上杉謙信、織田信長、毛利元就など名だたる武将はほとんどこの問題を経験しています。

そして御家騒動では家臣が自分以外の兄弟を支持する場合もあり、決着がついた後もその処断は大変難しいものでした。

家臣側から見ても、自分が裏切ったことを当主にバレているので生きた心地がしなかったでしょう。

その処分の上等策として使われたのが母親を当主に人質として差し出すことでした。

 

なぜ子供や妻ではなく母親だったのかというとこの時代の思想が反映しています。

当時日本の思想は中国を真似していたので、儒教が取り入れられていました。

儒教では跪いてあいさつしなければいけない人を君主、師匠、そして両親と定義しています。

親孝行をすることが、人道であると説いているので親を人質として差し出す=絶対背かないという意思表示となるのです。

 

特に母親というのは、子供にとって最愛にして最恐の存在でもあります。

君主からすると母親を味方につけておけば自分の監視がうまく行き届かなくても、人質の母親の待遇をよくしておけば勝手に指導してくれるというメリットがありました。

 

まとめ

 

戦国大名が交換し合った人質について記事を書きました。

大名といえども生き残ったり、財産を守るためには大きな代償を支払わなければならなかったようです。

諸事情があったと言えども、もし私が人質として親の敵対する国や同盟関係にある人の家に差し出されるようなことがあれば、きっと両親を憎しみ恨んだことでしょう。

これらを当たり前のことだと受け入れ、両親の死後きちんと供養をした帰蝶や徳川家康はとても度量の広い人物だと感じました。










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