戦国時代を生きた戦国武将の生き方!戦国大名との主従関係などについて







戦国武将たちは武士として戦場で活躍する一方で、国主と家臣、家臣と陪臣(ばいしん:家臣の家臣)というような主従関係を軸とした生き方をしていました。

主従関係を表すピラミッドがあるとすれば国主たる戦国大名がピラミッドの頂点にあり、中層にその戦国大名に仕える家臣が、下層に家臣に仕える陪臣が並び立つ仕組みで構成されました。

 

本記事ではそんな戦国時代を生きた戦国武将の生き方について、戦国大名との主従関係を軸にご説明したいと思います。

 

御恩と奉公は戦国時代も健在

 

 

 

小学校の歴史の授業で習う言葉の中に「御恩と奉公(ごおんとほうこう)」という重要なワードがあります。

御恩と奉公は、鎌倉幕府とそれに仕える御家人の関係を表すもので、武士がなぜ幕府のもとで働くのか、幕府は武士たちに働いた対価としてどうするべきかを表しているものです。

その御恩と奉公は戦国時代においても、戦国大名と家臣、家臣と陪臣が契約のひとつとして主従関係を保つ支えとなりました。

 

御恩とは
そもそも御恩とは、主君が家臣に対して生活の保障をし、領地の権利を認めたり、新たな領地を分け与えることを言います。
奉公とは
奉公とは家臣や陪臣が合戦への参加や軍事的な作業に従事することを言います。

 

御恩と奉公は対等な利害関係にあり、その利害関係が一致しない場合には解消されることもありました。

つまり、家臣や陪臣が辞職して主を変えるということです。

また、御恩の内容に不満があれば、家臣が出奔(しゅっぽん:逃げ出す、抜け出すこと)することもありました。

 

戦国武将の就職活動

 

仕官(しかん)とは武士が戦国大名などに召し抱えられて仕えることを言います。

戦国大名に仕える戦国武将は様々な経緯で戦国大名に仕官していました。

  1. 一族が先祖代々その大名家に仕えてきた譜代の家臣
  2. よりよい待遇や自分の能力を見出してくれる主を求めてよその土地や主の元を離れて家臣となった外様の家臣
  3. 元の主と今の主がかつて争った末に元の主がこの世を去って取り込まれた家臣
  4. 元の主が臣従したために陪臣となる外様の家臣

 

このように、仕官した経緯については十人十色でした。

 

戦国時代は「二君に仕えず」という綺麗ごとを抜きにして、自分自身が本当に仕えたいという動機だったり、自分の能力を最大限に生かせる場所を求めてあえて浪人となり、木の根をかじりながら仕官先を探して各地を転々とした武将も多くいます。

 

山本勘助

武田信玄の軍師山本勘助は、10年もの間、中国地方、四国地方、九州地方、関東地方の諸国を渡り歩いた後、武田信玄のもとへ身を寄せました。

織田信長に仕え、主を裏切ったことで有名な明智光秀の場合は、妻と幼い娘がいながら織田信長に仕えることを決断して浪人となった経験があります。

 

主君に不満があれば転職活動をした戦国武将

 

出奔(しゅっぽん)

出奔(しゅっぽん)とは仕官していた主君の家から武士が逃亡することを指します。

誰かの家臣から、浪人の身分へと身を落とし、別の主君に再仕官、いわゆる転職をしました。

身分が低い家臣ばかりでなく、重臣も出奔することがありました。

 

例として挙げるならば、かつて徳川家康の片腕として活躍した石川数正は、小牧・長久手合戦の直後、突然徳川家を出奔して豊臣秀吉に臣従しました。

石川数正は秀吉から河内国内で8万石を与えられました。出奔の理由は諸説ありますが、明確な理由は今も謎のままです。

 

浪人(ろうにん)

所領と職を失い、主人を持たない武士のことを浪人または牢人(ろうにん)と言います。

浪人は、正確には江戸時代から使われるようになった名称で戦国時代の当初は特にこれと言って区別される呼び方はされていませんでした。

 

戦国時代になると主従関係が明確になり、また合戦が多かったため主家が滅びて浪人となっても、他の大名などへ仕官する機会は多くありました。

また、待遇に不満があれば主君を見限って浪人となり、別の大名家に仕官する者もいました。

 

しかし、関ケ原の戦いで東軍の徳川家康が勝利すると、西軍についた大名の多くが潰されてしまったため、大量の浪人が発生しました。

そのため、大坂冬の陣が起きたときは、豊臣方に大量の浪人が押し寄せました。

その数10万人であると伝えられています。

 

御家が滅亡する没落

 

戦国大名の中には、城や領土を攻めとられたり、繁栄していた家が改易(かいえき:職を解かれること)にあってなくなり滅亡する者もいました。

そして滅亡後は、戦国大名としては存続できなくなるが、一家臣として他家の大名に仕える場合もありました。

江戸時代には幕府の家臣となり、旗本などに取り立てられて家名を残すことに成功した家もありました。

 

没落後に家名を残すことができた御家

今川家

今川家は今川義元が織田信長との桶狭間の戦いによって討死すると、嫡男の今川氏真は駿河と三河などを切り取られて滅亡。

その後、江戸幕府に出仕して旗本となりました。

 

武田家

武田家は武田信玄の4男、武田勝頼が後を継ぎ、長篠の戦いで織田信長に敗北しましたが、庶家が江戸時代も存続しました。

徳川家康は井伊直政などの武田の遺臣を自家に召し抱え、武田の赤揃えを復刻することを許しました。

 

北条家

北条家は豊臣秀吉の小田原城攻めで降伏し、北条氏直の死後、その子の北条氏親が家督を継ぎました。

北条家は後に許されて河内国の狭山を拝領し、子の氏盛は約1万石の大名となり、初代河内狭山藩主となりました。

 

出奔した家臣の再就職は許さない、奉公構とは?

 

奉公構(ほうこうかまい)は罪を犯して改易された家臣、出奔した家臣について、他家がこれを召し抱えないように他の大名に対して回状を出すことをいいます。

これにより出奔した戦国武将は他家への再仕官ができなくなりました。

これは武士にとって切腹に次ぐ重い刑であり、豊臣秀吉によってはじめられたと言われています。

 

黒田長政

後藤基次は黒田長政の家臣でしたが、長政の父である黒田如水の死から2年後に長政と対立して黒田家を出奔します。

基次の能力を惜しみ福島正則や前田利長、結城秀康らが召し抱えようとしますが、長政が奉公構の措置をしていたがために実現せず、基次は京都で浪人生活を送り余生を過ごしました。

基次が竹に出仕できるようになったのは1614年のこと、大坂の陣で大野治長の誘いを受け、大坂城に入城しました。

 

まとめ

 

本記事では、戦国時代を生きた武士たちの生き方について説明しました。

先祖代々御恩を受けている、自分のやりたいことはこの主のもとでは実現できないなど、仕官や出奔をする際には私たちの想像を絶する葛藤や動機があったものと考えられます。

果たして今は亡き彼らのとった選択は正しかったのでしょうか?

もし、石川数正が徳川家を出奔していなかったら。

もし、山本勘助が武田信玄に仕官していなかったら。

また違った歴史が日本史を彩っていたことでしょう。










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