日本は天皇を頂点として政治を行うという名目で、形の上では№2だけど事実上の政治の実権は豪族や貴族、幕府といった存在が握っていた時代がとても長い国です。
本記事に取り上げている執権政治が行われていた鎌倉時代は以上のような闇の部分が甚だしかった時代です。
鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が亡くなってからの鎌倉時代は北条氏による執権政治が行われました。
この執権政治は、天皇が任命した征夷大将軍がさらに任命した執権という役職の北条氏が実権を握っていた政治です。
執権政治では日本の№3が強力な権力を握っていたのです。
本記事ではこの北条氏による執権政治の歴史と内容についてわかりやすく説明していきます。
北条氏はいつから政治に関与しはじめたのか?

源頼朝
源頼朝(みなもとのよりとも)は平家を一掃すると天皇陛下に圧力をかけて自分を征夷大将軍に任命させ、鎌倉幕府を開きます。
それが西暦1192年のことで、本格的な武家社会の始まりです。
このときから政治の実権は朝廷(摂政や関白)から鎌倉幕府へ移ります。
頼朝の存命中は頼朝による鎌倉幕府将軍の独裁政治が行われていたのですが、開幕からわずか7年で頼朝は死去します。
頼朝の後継ぎとして2代将軍には頼朝の正妻である北条政子(ほうじょうまさこ)が生んだ長男頼家(よりいえ)が就任しました。
しかし、このとき頼家はまだ18歳です。
そのため、将軍を補佐するという名目で母親の北条政子とその父北条時政(ほうじょうときまさ)を中心とする政治が始まります。
これが北条氏による執権政治の始まりです。
息子(孫)を殺害して北条氏による執権政治の礎を築く
北条政子は猛女、北条時政は平氏と源氏の両家で猛将と謳われた人物です。
この北条父子を中心とする政治をよく思わなかった頼家は自分のお気に入りの部下ばかりを重用して自分の好き勝手に政治を行おうとします。
北条父子はこれではダメだと判断し、頼家を幽閉してその弟実朝(さねとも)を3代将軍に擁立します。
すると、頼家が可愛がっていた部下たちが北条氏に反発しました。
そうなると北条氏は2代将軍である頼家を亡き者にしようと計略を用いて頼家が懇意にしていた梶原景時(かじわらかげとき)や比企能員(ひきよしかず)などの有力な御家人を殺害し、頼家を入浴中に暗殺します。
この頃になると、北条氏の身勝手な立ち振る舞いに反感を抱く御家人が増えてきました。
源義経のもとで激戦を潜りぬけてきた畠山重忠(はたけやましげただ)や和田義盛(わだよしもり)たちは北条氏を滅亡させようと計画を練り、乱を起こすのですが、北条氏によって返り討ちにあってしまいます。
そうなると、北条氏に盾つこうとする御家人はいなくなり、北条氏による執権政治の基盤ができあがりました。
北条氏歴代の執権政治
【初代執権 北条時政(ほうじょうときまさ)】

北条時政
北条時政は源頼朝亡き後、娘の北条政子とともに2代将軍頼家を補佐します。
頼家の自由気ままな独裁を止め、宿老(家老と同義)拾三人の合議制を提案しました。
この合議制の内容は政務の議会において13人の宿老が同意しないと法案や政策を可決しないというものでした。
これは、2代将軍頼家が自分のお気に入りである5名を指名し、その5人に逆らうことを禁じ、自分はその5人にしか会わないという突拍子もない制度を作ったことに対抗する手段でした。
その後、北条時政は梶原景時や比企能員をはじめとする有力な御家人を滅ぼして政所別当(まんどころべっとう)に就任します。
鎌倉幕府ではこの政所別当が執権と呼ばれるようになります。
3代将軍実朝の治世では補佐役として幕政を左右しました。
【2代執権 北条義時(ほうじょうよしとき)】
北条義時は畠山重忠が北条氏を滅ぼさんと乱を起こしたのを機に父である時政を出家させて鎌倉幕府から追放し、自らは政所別当に就任します。
侍所別当(さむらいどころべっとう:武士が常駐する機関の長官)である和田義盛が乱を起こしたときにこれを鎮圧し、侍所別当も兼任します。
以来政所別当と侍所別当を兼任する者が執権となり、両機関は北条氏が代々世襲するようになりました。
2代執権北条義時のころは鎌倉幕府3代将軍実朝(甥っ子)の暗殺(実朝の実母北条政子との兄妹による共謀と言われている)と後鳥羽上皇による承久の乱が起きます。
実朝が死去したことによって源氏の嫡流は絶滅します。
それでも鎌倉幕府将軍はいなければならないので、この頃から公家より7~10歳くらいの少年を選抜して将軍に就け、政治の実権は北条氏が握る。
将軍が成人すると廃位してまた公家から少年を選抜して将軍につけるという流れが慣例化します。
承久の乱鎮圧後には朝廷を監視する機関である六波羅探題が設置されます。
【3代執権 北条泰時(ほうじょうやすとき)】

北条泰時
北条泰時は伯母の北条政子が死去すると鎌倉幕府を宇津都辻子に移し、政務を執ります。
3代執権北条泰時のころは、裁判をスムーズに進行できるよう連署や評定衆の設置と武家の法律である御成敗式目を制定します。
和賀江嶋という貿易港を築き、巨福呂坂や朝夷奈切通などの流通ルートを開通させ、本格的な北条執権体制を確立しました。
【4代執権 北条経時(ほうじょうつねとき)】
4代執権北条経時の時には将軍が実権を握ろうとするなど、反執権勢力が盛り上がりを見せました。
経時はそんな実権を握ろうとした将軍を下ろして、別の将軍を擁立することに成功します。
【5代執権 北条時頼(ほうじょうときより)】

北条時頼
5代執権北条時頼は反執権勢力を一掃することに成功します。
さらに、執権に次ぐ有力な御家人を排除し、当時の将軍を追放。
後嵯峨天皇(ごさがてんのう)の皇子を次期将軍に擁立しました。
また、時頼の治世以来北条嫡流による専制的な執権政治が始まります。
さらに、裁判沙汰を効率よく処理するために領地問題に特化した引付という裁判機関を設けます。
【第1次中継ぎ執権】
5代執権北条時頼は6代執権北条長時(ほうじょうながとき)に執権を譲位します。
それは嫡男北条時宗(ほうじょうときむね)が幼少だったためにとられた措置でした。
しかし、譲位された長時も間もなく病のため執権を辞任すると、7代執権に北条政村(ほうじょうまさむら)が就任しました。
そしてこの頃、元の第5代皇帝フビライ・ハンが日本を元に従わせようとして侵攻してきます。
これが第1次元寇(蒙古襲来)です。
【8代執権 北条時宗(ほうじょうときむね)】

北条時宗
8代執権北条時宗の就任時は2度に渡って元寇(蒙古襲来)という日本の危機に直面しました。
元寇は神風によって撃退されたとされていますが、2度目の元寇では鎌倉幕府の御家人が7日間粘って上陸を許しませんでした。
その間に暴風雨が降って元は撤退していきました。
また、当時福岡では2度目の元寇に備えて200kmにおよぶ石垣を海岸線に沿わせたと言われています。
【9代執権 北条貞時(ほうじょうさだとき)】

北条貞時
平氏のご落胤、管領の平頼綱(たいらのよりつな)が勢力を伸ばして、恐怖政治を強行します。
貞時はこれを誅殺して執権政治体制をより強固なものへと整えました。
【第2次中継ぎ執権】
北条貞時は執権の座を10代執権北条師時(ほうじょうもろとき)に譲ります。
その後は執権を第11代執権北条宗宣(ほうじょうむねのり)、第12代執権北条煕時(ほうじょうひろとき)、第13代執権北条基時(ほうじょうもととき)を経て、第14代執権に北条高時が就任します。
【14代執権 北条高時(ほうじょうたかとき)】
14第執権北条高時は14歳という若さで執権に就任しますが、そのとき実権は管領の長崎氏が掌握していました。
政治的な意欲は弱く、太平記には闘犬や田楽に興じる暴君と批判されています。
24歳のときに病弱なため、執権を辞職しましたが、新田義貞(にったのよしさだ)による鎌倉攻めの際に自刃しました。
【15代執権 北条貞顕(ほうじょうさだあき)】
14代執権北条高時の辞任により北条貞顕が15代執権に就任しますが、反発勢力によって高時の弟泰家(やすいえ)を就任前に推挙されていました。
泰家は兄に失望し、意固地になって出家します。
やがて泰家によって貞顕が謀られているとの噂があり、貞顕就任後わずか10日で執権を辞任しました。
【16代執権 北条守時(ほうじょうもりとき)】
16代執権北条守時が最後の執権です。
守時の代で鎌倉幕府は新田義貞(にったのよしさだ)や足利尊氏(あしかがたかうじ)によって倒幕されます。
一般的な知名度は低いのですが、守時は足利尊氏の正妻の兄。
つまり足利尊氏にとって義理の兄にあたります。
北条守時は最後まで北条氏の威厳を保ちながら自刃し、事実上の倒幕がなされました。
まとめ
北条氏による執権政治は100年以上におよぶ鎌倉幕府№2が日本の頂点に君臨して行政を行った政治です。
朝廷の摂政や関白の幕府バージョンとでもいえば、おおよその意味が伝わると思います。
天皇に任命された鎌倉幕府将軍、それより下の立場の一御家人が日本の頂点となるのですから、北条氏による執権政治は前代未聞の政治です。
しかもこの執権政治は鎌倉幕府を開いた源頼朝の没後から鎌倉幕府が倒幕されるまで、約100年以上も続きました。
このような政治体系は世界広しと言えど、日本だけです。
北条氏による執権政治では六波羅探題の設置、御成敗式目の制定、2度に渡る元寇の撃退、有力御家人の排除などのさまざまな政策が実施されました。
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