江戸幕府を襲ったキリシタンの一揆 島原の乱の始まりから終わりまで







西暦1637年、戦乱の世が終わり平和ボケしていた江戸幕府を震撼させる事件が起きます。

その事件とは天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)という少年が民を先導して幕府に反旗を翻した『島原の乱』です。

本記事では島原の乱の始まりから終わりまでを解説します。

 

島原の乱が起きた経緯

 

島原の乱は、別名『島原・天草一揆』とも呼ばれる場合もありますが、本記事では島原の乱と統一して解説します。

 

西暦1549年にフランシスコ・ザビエルが日本へ来航して以来、多くの宣教師たちが日本へ渡りキリスト教は九州と近畿を中心に日本国内に浸透しました。

現在の長崎県の島原半島を所領する有馬晴信(ありまはるのぶ)、現在の熊本県天草地方を治めていた戦国大名の小西行長(こにしゆきなが)は熱烈なキリシタン大名で、その領民もキリスト教を信仰しました。

 

しかし、江戸時代に突入すると島原、天草それぞれに松倉氏(まつくらし)寺沢氏(てらさわし)が新任の大名として派遣され、江戸幕府が布告したキリスト教禁教令により、キリシタンにキリスト教から仏教への改宗を迫り、従わない者には残忍な拷問を加えるなど、キリシタンを弾圧するようになります。

これが俗に言うキリシタン狩りと呼ばれるものです。

 

このようなキリシタンを迫害しようとする江戸幕府の政策や運動に対し、キリシタンの不満はどんどん募っていき、ついにその恨みの念はせきを切って江戸幕府に襲いかかりました。

それこそが島原の乱です。

 

キリシタン農民の蜂起から始まる島原の乱

西暦1637年10月24日、現在の長崎県島原城に緊張が走りました。

棄教していたはずの農民数名がキリストやマリアの画像を祀って拝んでいるとの報告です。

城主松倉氏の家臣は首謀者とその家族を捕らえましたが、このとき代官が聖画像(キリストやマリアの画像)を踏みにじり、妊娠していた年貢を納められない庄屋の妻を水牢に入れ、殺害するという残虐な行いをしました。

 

翌日、この代官は激昂した農民たちによって撲殺。これをきっかけにキリシタンへの復宗(前の宗教に復活すること)を表明する民衆が相次ぎ、殺気だった民衆は口々にデウスの名を唱えながら他の代官にも討ち入りをしました。

 

棄教を迫って重税を課し、それに応えられなければ拷問するという領主の圧政に苦しんでいた民衆は既に我慢の限界に達しており、一度ついた火種はごうごうと燃え盛る大火へと化けました。

島原半島のおよそ2/3の村々から集結した一揆勢は、肥後天草から来た天草四郎時貞に率いられて島原城に押し寄せ、その数はよそ6000人に達しました。

 

天草地方のキリシタンが呼応した天草一揆

天草四郎時貞

島原での蜂起と軸を同じくして島原の乱が勃発してから3日後、島原半島に浮かぶ天草の諸島でも農民が蜂起しました。

弾圧によって棄教していた者のキリシタンへの復活が天草四郎時貞の故郷を中心として起こり始め、天草上島や天草下島に広がりました。

 

島原でも見られたことでしたが、一揆勢は寺院や僧侶を攻撃し、キリシタンではない住民にはキリスト教への改宗を強要してこれに従わなかった者は襲われ、村々は焼き払われました。

そのため、熊本藩が治める地へ落ち延びる難民も現れました。

島原の乱が別名島原・天草一揆と呼ばれている所以は島原と天草の各地でこのようにキリシタンが一揆を起こし、結託したからです。

 

島原の乱の舞台 キリシタンが立て籠もり江戸幕府と戦った原城

 

島原、天草地方で起きたキリシタンによる一揆はますます激化し、江戸幕府によって廃止された原城を制圧するにまで至りました。

キリシタンの一揆衆は原城へ入城すると立て籠もり、籠城戦のため原城の改修工事に取り掛かります。

一揆衆は老朽化していた城壁や城門を修理し、船を解体したり莚を編むなどして建設資材を即席で調達し、板塀や柵を原城の城壁に張り巡らせました。

 

そうしているうちに呼応して集まったキリシタンたちが続々と原城へ集まり、当初6000人だった一揆衆は2万2700人を優に超え、開戦の火蓋が切られる12月には3万7000人へと膨れ上がりました。

 

江戸幕府による島原の乱への初動対処

 

江戸幕府は中央から諸大名へ将軍の命令を伝えるための使者、上使を九州へ派遣します。

しかし、九州地方の大名たちはそのとき江戸へ出府中であり、城主の息子が父親の名代として対応したため、軍備に約1カ月もかかってしまいました。

九州の諸藩を中心にして結成された幕府軍は12月19日の夜に原城を攻撃、翌日一時的に原城の一部を占拠するも一揆衆の激しい反撃にあい、約500名の死傷者を出して退却を余儀なくされます。

それから10日間は直接対決することなく、幕府軍と一揆衆は腹の探り合いをします。

 

そして迎えた大晦日、幕府軍は縁起のよい元旦を選び総攻撃を仕掛けて原城を一気に攻め落とさんと躍起になりますが、この情報は一揆衆に筒抜けとなっており、事前に準備を整え士気を高めていました。

元旦当日、まだ夜も明けないうちから幕府軍は原城へ攻め入りましたが、一揆勢の鉄砲、槍、石つぶてによる必死の守りは頑丈で、思うように戦火が上がりませんでした。

そのとき、江戸幕府から上使と派遣され指揮官となった板倉重昌(いたくらしげまさ)は煮え切らない戦況に苛立ち、みずから単騎で飛び出し城壁に取りついたところを鉄砲で撃ち抜かれ命を落とします。

 

幕府軍側は死者600余名、負傷者3000余名を出して幕府軍の総攻撃は失敗に終わります。

一方の一揆勢は死傷者わずか90名ほどであったと伝えられています。

 

江戸幕府の本命到着とオランダ船の攻撃

 

島原の乱が重要視されている要因のひとつは日本国内の反乱に初めて外国の協力を得たことです。

 

江戸幕府の本命となる老中松平信綱(まつだいらのぶつな)は西暦1638年1月3日に島原へ入ると元旦に行われた総攻撃失敗と板倉重昌の戦死の一報を受け、原城の攻略は一筋縄ではいかないことを悟りました。

 

翌日原城に迫った松平信綱は城内の食料や弾薬が尽きるのをひたすら待って総攻撃を仕掛ける兵糧攻めの作戦をとりました。

当初は「短期決戦で殲滅しろ」と指示していた時の江戸幕府将軍徳川家光(とくがわいえみつ)も一揆勢の力が侮れないことを認識し、松平信綱の慎重策を支持しました。

 

また、松平信綱は平戸のオランダ商館長にオランダの軍艦1隻を用いて海からの砲撃を依頼しました。

オランダ船からの砲撃は1月中旬から月末にかけて行わせましたが、一揆衆の団結は固くまったく効果がありませんでした。

 

島原の乱の一揆衆へ内部崩壊の道を辿る

 

決意の意思は固いと見ていた島原の乱を起こした一揆衆は意外な形で内部崩壊を始めます。

幕府軍が築いた原城本丸正面の砲台から砲撃された大砲の砲弾が天草四郎時貞の側近数名の命を奪い、天草四郎時貞の左袖も撃ち抜いてから天草四郎時貞を不死身だと信じていた一揆勢は「デウスのご加護が失われた」と大きく動揺しました。

 

実は一揆勢を構成するのはキリシタンばかりではなく、地域や血縁関係、村に押し寄せたキリシタンからの強要によって一揆に加担した者も少なくありませんでした。

天草四郎時貞のことを神のように崇めていた一揆勢にとってこの攻撃は、一揆勢に現実を見せつける機会となったのです。

幕府軍を撃退し、オランダ船の砲撃にも動じなかった彼らの士気はこの一件からガタガタと低下していきます。

 

島原の乱に終止符 江戸幕府本軍による原城総攻撃

 

2月も半ばとなると一揆勢は弾薬の節用をしなければならなくなりました。

そうしているうちに偵察するための櫓を建てる工事がしやすくなった幕府軍は本丸、二の丸、三の丸の周辺に櫓を建てます。

 

また、この頃になると籠城に耐えかねた民衆が逃亡して来て幕府軍に投降する者が続出しました。

幕府軍は投降してきた民衆の口や偵察兵の情報もあって原城内の食料、弾薬が底をつき、士気が衰えていることを知ります。

ついに松平信綱は総攻撃を仕掛ける機会を得ました。

これらの情報をもとに総攻撃の決行日は2月28日と決められたのですが、その前日になぜか一揆勢が退却を始め、それを追撃しようとした鍋島藩の軍勢を抜け駆けと見た諸将は我先にと目の前の城壁に殺到し、想定外の形で総攻撃が始まってしまいました。

 

こうなると松平信綱でさえも幕府軍の勢いを止めることができません、予定を変更して全軍に攻撃を命じます。

幕府軍は二の丸、西口、北口から本丸へ突入し、原城に火をかけました。

次いで天草四郎時貞が陣を張る砦を焼き払い、その首級を挙げたあと一揆勢の掃討を開始します。

 

約3カ月に及ぶ籠城で飢えと疲労の極みにあった一揆勢に最早抵抗する寄力は残っていませんでした。

戦闘はたった数時間で決着がつき、幕府軍は老若男女問わず動けない者や投降する者であっても容赦なく殺害し、その姿は大量虐殺そのものでした。

 

夕方になると原城は落城し、一揆勢はほとんど全滅しましたが、城内の虐殺は翌日まで続けられ、一揆勢の首をまるで草のように刈り取った幕府軍はその首を城柵に掛けて並べました。

その数は1万人を超え、焼死に追い込んだ者だけでも6000人に及びます。

 

戦後処理として虐殺されたのべ1万6000人の遺体は大半が海や空堀に投棄されました。

首謀者である天草四郎時貞とその側近たちの首は長崎に3日間晒され、キリシタンが江戸幕府を襲った島原の乱は終止符を打つことになります。

 

まとめ

 

島原の乱は江戸幕府によるキリシタンの弾圧や圧政に苦しんだ民衆がキリシタン農民を中心に蜂起して始まりました。

島原の乱を起こしたキリシタンはキリシタン以外の民衆も巻き込んで約3万7000人に及ぶ反乱勢力へと成長しましたが、長期間の籠城によって食料と弾薬が尽きて徐々に内部崩壊を始めます。

ついに幕府軍が総攻撃を仕掛けたときにはすでに抵抗する余力も残されておらず、わずか数時間で首謀者の天草四郎時貞は討ち取られ、2万人以上の犠牲を出した島原の乱は幕府軍の勝利で終わりました。










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