江戸時代末期、約300年続いた江戸幕府の政治基盤である幕藩体制が崩壊しつつあり日本は動乱の幕末期を迎えます。
そんな中、京都の治安を維持するために結成されたのが幕末のヒーロー『新選組』。
新選組は大半が庶民の出身ながら「武士よりも武士らしく」をスローガンに最後の最後まで武士道を貫いた集団です。
現在は幕末のヒーローと名高い新選組はどのように誕生したのでしょうか?
動乱の幕末期
アメリカから黒船に乗ってやってきたペリーによって日本は開国か攘夷(じょうい)かの2択を迫られました。
開国とは3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)から続く鎖国体制を解き、外国と国交をすること。
攘夷は外国を積極的に排斥しようという思想です。
西暦1854年に日本とアメリカとの間で結ばれた日米通商条約の締結時、各藩の意見は攘夷が約半数を占めていました。
しかし、アメリカとの力の差を見せつけられた江戸幕府の首脳はなかば強行手段として不平等な日米通商条約を締結します。
西暦1858年に井伊直弼(いいなおすけ)が大老へ就任すると、「朕は外国は好かん」という孝明天皇(こうめいてんのう)の意見を無視して、許しがないまま日米修好通商条約に調印してしまい、天皇の意向を無視した幕府を非難する声が上がりました。
すると、井伊直弼は幕府を非難する大名、公家、廷臣らを次々と処罰する安政の大獄(あんせいのたいごく)を実行します。
安政の大獄での苛烈な弾圧が土佐藩や水戸藩など過激派の藩から恰好の餌食となり西暦1860年、井伊直弼は現在の警視庁の前あたりで水戸藩浪士によって暗殺されます。
これが俗に言う桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)です。
桜田門外の以降、幕末の京都は危ない町となった
桜田門外の以降、京都の町には続々と過激な尊王攘夷派(そんのうじょういは:主君を尊び外的を排除するという思想)の志士たちがたまり場としました。
尊王攘夷の志士たちが京都を選んだ理由は、当時京都において江戸幕府の統制が緩んでいたからです。
彼らは九条家の家臣島田左近(しまださこん)の暗殺をはじめとして「天誅」と称し、佐幕派と公武合体派に対する粛清を開始。その風潮が全国に広まりました。
江戸幕府は京都の治安強化のため京都守護職を新設し、新選組を作る会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)を任命。
京都御所の警備をしていた京都見廻組とともに京都の治安維持に当たらせました。
新選組の前身となる浪士組の結成
松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職に任じられた翌年、江戸幕府は欠員を補うために江戸で『浪士組』を募集します。
浪士組が徴発されたのは、将軍が京都へ上洛するときの身辺警護をさせるためであり、もし浪士組に採用されれば1人あたり10両2人扶持。
つまり一時金として10両(現在価値:180万円)と1日あたり1升(米10合)が支給されます。
この募集で集まった浪士は230人以上。
その中には天然理心流の道場主近藤勇(こんどういさみ)と門下生の沖田総司(おきたそうじ)、近藤と親交の深い土方歳三(ひじかたとしぞう)など後に新選組局長、副長、隊長となる者の姿がありました。
浪士組は剣客として帯刀していても身分は農民や庶民と変わらない、武士とは区別された人々でした。
いつか武士になって尽忠報国の志を果たしたいという願いを持っていた後の新選組幹部にとって幕府の浪士組募集は千載一遇のチャンスでした。
浪士組に参加するために集まった者の中には剣客だけでなく、博徒くずれのチンピラや食に事欠いた元僧侶らも混在していました。
後の新選組幹部とその他浪士たちは一番~七番までの7組に分けられ、新選組の前身となる浪士組が結成されました。
新選組の前身 浪士組京都へ入る
西暦1863年2月8日、新選組の前身である浪士組は江戸を発ち京都へ向かいました。
浪士たちの出で立ちは木綿無地羽織、小袴、野袴、半纏とみなバラバラで持ち物も陣太刀、長槍、弓と統制が取れておらず、まさに百鬼夜行を彷彿とさせる行進でした。
同年2月23日に浪士組は壬生の新徳寺に本営を敷き、寺宿や民宿、民家などに宿泊することになりましたが、その夜事件が起こります。
当初浪士組を率いていた清河八郎(きよかわはちろう)が尊王攘夷の大義のため天皇の意向を優先し、それを妨げる者は幕府の役人であっても容赦しないという旨の建白書を朝廷に提出するという大胆な提案をしたのです。
つまり、京都までの費用は幕府に出してもらい、天皇から勅命を賜って攘夷活動を行う独立遊軍的な仕事をしようということです。
清河八郎は独断で建白書を上奏すると、目論見通り翌月には天皇から攘夷に備えるようにと江戸への帰還命令が下されました。
新選組幹部となる近藤勇らは攘夷には賛成でしたが、将軍が天皇より正式に攘夷の勅命を受けるまで一緒に京都へ留まり、その間将軍の警護をしたいという意向がありました。
そのため、清河八郎らとは袂を分かち、近藤勇以下天然理心流一門と水戸浪士芹沢鴨(せりざわかも)を代表とする水戸派の計13名は京都に留まり、幕府から与えられた職務を遂行しようとしました。
武士よりも武士らしい新選組誕生
清河八郎らと袂を分かち京都残留を決めた新選組幹部たちでしたが、資金を持っていたのは清河八郎だったので生活のあてがありませんでした。
そこで、芹沢鴨の伝手を頼り、幕臣の斡旋を受けて将軍が江戸に帰還するまでの間だけでも働かせてほしいと前年に京都守護職に赴任したばかりの松平容保に嘆願書を提出しました。
京都の治安維持に頭を悩ませていた松平容保にとってこの申し出はまさに渡りに船でした。
浪士組は会津藩お抱えとなり京都守護職傘下の保安隊としての役目を与えられました。
これを機に浪士組は「壬生浪士組」へと改称します。
その後浪士組は京都・大阪を中心に隊士を段階的に募り、当初13名だった浪士組はその4カ月後には52人になっていました。
このころになると何らかのルールが必要ということで浪士組独自の禁令ができました。
同年、西暦1863年8月18日には公武合体派によるクーデターが勃発し、浪士組は御所の門を守る任務に当たりました。
このとき発揮した統制のとれた機動力が幕府に認められ「新選組」の隊名を授かり、晴れて新選組が誕生しました。
まとめ
新選組が誕生した理由は当時過激な尊王攘夷派の志士たちを取り締まり、京都の治安を維持するためでした。
新選組誕生の経緯は天皇から将軍が攘夷の勅命を拝命する際、当時治安の悪かった京都において、将軍の身辺警護要員に募集された浪士組が公武合体派によるクーデーター勃発時の働きを認められて江戸幕府より「新選組」の隊名を授かったことで誕生しました。
コメントを残す