第3代将軍「足利義満」の邸宅は贅を極め、四季の花々が咲き乱れる「花の御所」と呼ばれました。
室町幕府が置かれたこの地の東隣に、義満は巨大な禅寺「相国寺」を建立しました。
相国寺は、かつて約144万坪(東京ドーム約100個分)の敷地に、50あまりの塔頭が立ち並んだ、臨済宗相国寺派の大本山です。
修学旅行の定番「金閣寺」「銀閣寺」も、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう:寺院の敷地外にある子院)です。
今回は、将軍義満の生涯をたどりながら、禅宗文化の中心的存在だった相国寺の成り立ちと歴史を見ていきましょう。
相国寺はやがて、禅宗文化のサロンに……
政の舞台となった義満の邸宅の隣に、10年がかりで建立された相国寺の周辺は、政治や文化の中枢となりました。
室町第(むろまちてい)と呼ばれる邸宅に幕府がおかれ、相国寺には多くの優れた学僧や画僧が集まりました。
国宝の瓢鮎図(ひょうねんず:退蔵院蔵)を描いた如拙(じょせつ)、水墨画の大家・雪舟や周文も相国寺の出身です。
相国寺は、幾度となく戦禍や火災に見舞われましたが、その度に時の権力者の保護を受けて再興しています。
今も約4万坪の寺域に13の塔頭寺院があり、1605年に豊臣秀頼の寄進により再建された荘厳な佇まいの「法堂」は、日本最大で最古の法堂建築です。
春と秋の特別拝観期間のみですが、6室168畳の方丈(住職の居室)や開山堂、浴室などが公開されます。
また、常設展示されている伊藤若冲の作品の他、長谷川等伯や狩野探幽、円山応挙などの作品が伝わり、数々の寺宝も美術館で楽しめます。
禅院の頂点を極めた相国寺の略年表
- 永和4年(1378)足利義満は、完成した室町第(室町殿・花の御所)に幕府を移す(1371、1374、1379年とも)
- 永徳2年(1382)義満は、禅寺の創建を発願(ほつがん:神仏に願を立てること)、寺名に「相国寺」を使うこととし、仏殿と法堂の建設を始める
- 至徳元年(1384)大仏殿の立柱 相国寺の寺号を「萬年山相國承天禅寺」、開山(かいさん:初代住持職)は、故「夢窓疎石(むそう そせき)」、二世住持を春屋妙葩(しゅんおくみょうは)とする
- 元中2年(1385)相国寺の仏殿完成
- 至徳3年(1386)義満が相国寺を京都五山(臨済宗五大寺:京都の禅宗の寺格)の第二位にする
- 明徳3年(1392)相国寺の伽藍が完成し、落慶法要(寺院の完成を祝う法要)が行われた
- 明徳4年(1393)相国寺七重大塔の建設が始まる
- 応永元年(1394)寮舎から出火し、堂宇伽藍(どううがらん:寺の建物の総称)を全て焼失
- 応永2年(1395)仏殿や開山堂の再建がはじまる
- 応永6年(1399)相国寺の七重大塔が完成(史上最高の仏塔)
- 応永8年(1401)室町幕府が相国寺を京都五山の第一位とした
- 応永10年(1403)高さ109mの七重大塔が落雷により炎上、焼失する
- 応永15年(1408)足利義満が51歳で亡くなる
- 応永17年(1410)京都五山の第二位に戻される
- 応永23年(1416)北山第(義満の邸宅)に再建中の七重大塔が、再び落雷により焼失した
- 応永27年(1420)北山第は、禅寺の鹿苑寺(ろくおんじ:金閣寺)に改められる
- 応永32年(1425)賢徳院より出火し全焼する 足利義持が仏殿の再建を始め、その後も歴代将軍により再興される
- 応仁元年(1467)応仁の乱により、東司や総門などが焼失 金閣などを残して鹿苑寺も焼失する
- 文明2年(1470年)七重大塔が再び落雷焼失し、その後再建されることはなかった
- 文明14年(1482)足利義政が、東山山麓に山荘の建設を始める
- 延徳元年(1489)銀閣の建設が始まる
- 延徳2年(1490)義政の死後、銀閣が完成
- 天文18年(1549)天文の乱で相国寺は全焼
- 天正2年(1574)織田信長が相国寺方丈で茶会を催す
- 慶長9年(1604)豊臣秀頼の寄進により、法堂の再建が始まり、翌年完成し現存する
- 慶長14年(1609)徳川家康が三門を寄進
- 宝暦9年(1765)伊藤若冲が、釈迦三尊図動植綵絵24幅を寄進する
- 天明8年(1788)天明の大火により、大半を焼失するも、法堂は免れる
- 文化4年(1807)桃園天皇皇后の旧殿を、開山堂として再建する
- 昭和25年(1950)鹿苑寺の金閣が、放火により全焼
- 昭和30年(1955)金閣の復元が完成する
- 昭和59年(1984)承天閣美術館が開館
- 平成10年(1998)法堂の修理が完了
- 平成23年(2011)相国寺鐘楼「天響楼」を建立
足利尊氏の孫という超エリートが、室町時代の全盛を築く
南北朝時代のさなかに生まれた足利義満が、分裂した朝廷を和睦させました。
公家と武家を支配し、強大な権力を手にした義満は、いずれは天皇の父になりたかったのかもしれません。
1358年、室町幕府を開いた足利尊氏が亡くなった年に、孫の足利義満が誕生します。
1361年には、当時争っていた南朝に京都を占領され、建仁寺に匿われた後、播磨白旗城へと逃れ、翌年の帰京まで城主の赤松則祐に養育されました。
1367年、父の義詮が死去したため、細川頼之を後見として足利将軍家を継ぎ、1369年に第3代将軍となります。
1378年、邸宅を三条坊門から、室町北小路の室町第に移し、幕府の政庁としました。
後にこの地名から、室町幕府と呼ばれるようになります。
1382年、以前より禅修業に傾倒していた義満は、師と仰ぐ春屋妙葩らに相談して、禅寺の建立を決意しました。
寺号(寺の名称)の相国は、かつて中国の都だった開封にある「大相国寺」からつけられました。
また相国は、太政大臣(朝廷の最高職:左大臣、右大臣とも)の中国名であり、当時左大臣の義満が建てた寺なので、相国寺となりました。
ちなみに、平清盛や徳川家康も相国と称され、徳川家歴代将軍の戒名にも、相国が多用されています。
1390年に守護大名の土岐(とき)氏、翌年には山名氏を討伐し、南朝の勢力を衰えさせました。
1392年、義満は南北朝間の和睦を成立させ(明徳の和約)、1336年から分裂していた朝廷を合一しました。
1394、将軍職を足利義持に譲位し、翌年には出家しますが、これは公武両勢力の頂点に立った義満が、寺社勢力も支配しようとしたと言われています。
1397年、京都北山に造営した、北山第(きたやまてい:のちの鹿苑寺)を中心に、公家文化と武家文化に禅宗を融合させた「北山文化」を展開しました。
1408年に49年の生涯を閉じた義満の遺骨は、相国寺の塔頭「鹿苑院」に葬られました。
一説には、次男の義嗣を天皇にして、自らは天皇の父親として、天皇家を手中に収めたかったとも言われています。
没後、朝廷から贈られた「鹿苑院太上法皇」の称号を幕府は辞退していますが、相国寺の過去帳(故人の記録)には「鹿苑院太上天皇」とあり、臨川寺(りんせんじ)に残る位牌の戒名には、法皇の文字が刻まれています。
応仁の乱の転機となった相国寺の戦い
1467年の相国寺の戦いは、応仁の乱(1467-1477年)の中で、最も激しかった戦いとされています。
東軍(足利義視・細川勝元・畠山政長)と西軍(足利義尚・山名宗全・畠山義就)にとって、相国寺は戦略拠点だったため、繰り返し戦火に見舞われました。
10月3日、東軍が構える相国寺を西軍が猛攻し、東軍が撤退、西軍が相国寺を占領します。
翌日、東軍の畠山政長が西軍を急襲し、相国寺を奪い返すも、再び西軍に奪還され、その後休戦となりました。
この戦いで、相国寺は三日三晩燃え続けたと伝わります。
両軍の被害は甚大だったため、京都での戦いは散発的となり、やがて戦火は地方へと広がっていきます。
正倉院の天下一の香木を切り取った、信長の大茶会
1573年、室町幕府を滅ぼし、浅井・朝倉氏を倒した織田信長は、天下統一を目指して邁進します。
1574年3月には、東大寺秘蔵の蘭奢待(らんじゃたい:正倉院に収蔵されている香木)を切り取り、4月に相国寺で茶会を催します。
聖武天皇の代に中国から伝わったという名香の蘭奢待を切り取ることが、天下人の証とされていたようです。
蘭奢待の一片は天皇に献上し、小片は名物香炉を持っていた茶人(千利休・津田宗及)に与えました。
大茶会は何日も続き、1000人あまりの客が集ったと伝わります。
茶会に家臣や堺の豪商達を招き、蘭奢待を披露することで、織田信長が天下を取ったのだと世に知らしめました。
1575年、相国寺を宿舎としていた信長を、桶狭間で討ち果たした今川義元の子の氏真(うじざね)が挨拶に訪れています。
氏真は信長から蹴鞠を所望され、後日相国寺で蹴鞠の会を催しますが、見世物にされた氏真の思いは、いかばかりだったでしょう。
豊臣秀頼が寄進した法堂の天井には、鳴き龍が!
創建時「法雷堂」と言われた相国寺の法堂は4回焼失しており、現存の法堂は1605年、徳川家康の命で豊臣秀頼が寄進し再建したものです。
再建時、天井の直径9mの円の中に、狩野光信筆の「蟠龍図(ばんりゅうず)」が描かれました。
蟠龍とは、まだ昇天していない龍のことで、堂内の中央で手を叩くと、その共鳴音がまるで龍の鳴き声のように聞こえます。
仏殿が、応仁の乱で焼失してから再建されなかったので、ご本尊の釈迦如来坐像は、法堂に安置されています。
なお本像は、東大寺南大門仁王像などの作家として著名な「運慶」の作と伝わります。
また、開山の夢窓疎石木像や足利義満像なども祀られています。
春と秋の特別拝観時には参拝できますよ。
※特別拝観のお知らせ:http://www.shokoku-ji.jp/a_news17.html
相国寺の基本情報
建物の内部は通常非公開ですが、境内の参観は自由です。
春と秋の特別拝観
参拝時間
10:00~16:00
参拝場所
法堂・方丈・開山堂 (秋のみ)・浴室(春のみ)
参拝料金
800円
所要時間
約60分
承天閣(じょうてんかく)美術館
金閣寺や銀閣寺などの美術品も展示しています。
開館時間
10:00~17:00
入館料
800円(展示により異なる)
・開催中の展示:http://www.shokoku-ji.jp/j_now.html
アクセス
地下鉄「今出川駅」から徒歩約8分
市バス「同志社前」から徒歩約6分
駐車場
10台 無料
問い合わせ
相国寺事務局 TEL 075-231-0301
住所
〒602-0898 京都市上京区今出川通烏丸東入
※相国寺公式サイト
http://www.shokoku-ji.jp/s_about.html
http://www.shokoku-ji.jp/
京都五山第二位の相国寺は、特別拝観がおすすめ
足利義満の発願から始まる、相国寺の歴史をお届けしましたが、いかがでしたか。
室町幕府の権威を誇示する禅寺でしたが、やがて禅宗文化の中心となっていったのですね。
京都五山(南禅寺・天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)はどこも名所ですが、相国寺も負けていません。
華やかな金閣寺や渋い銀閣寺も勿論素敵ですが、時には本山の相国寺に足を運んでみてはいかがでしょう。
法堂や方丈などが公開される、春と秋の特別拝観期間は2ヶ月以上と長めなので、ぜひ日程を合わせて訪れてくださいね。
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