かつて日本には犬の方が人間よりも地位の高い時代がありました。
このような前代未聞の天下を作ったのは江戸幕府第5代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)です。
徳川綱吉は犬公方(いぬくぼう)というあだ名で呼ばれ、生き物、特に犬を大事にせよという『生類憐みの令』を制定した将軍です。
本記事では生類憐みの令とはどんな法令なのか詳しく解説します。
犬公方!徳川綱吉が制定した生類憐みの令とは?

徳川綱吉
生類憐みの令とは犬公方とあだ名にされた江戸幕府第5代将軍徳川綱吉によって制定された「生き物を憐れむ」ことを主体として発布された段階的な法令です。
「生類憐みの令」という題目の法令はなく、先に示す段階的に発布された法令の総称のことを「生類憐みの令」と言います。
生類憐みの令と言えば犬を保護することに特化した法令というイメージですが、動物、魚介類、孤児、傷病者、昆虫なども保護の対象としています。
生類憐みの令が誕生した経緯

徳川綱吉は儒学と仏教を献身的に学ぶ文化系の将軍でした。
徳川綱吉の敬愛する儒学の祖孔子の教えには人は生涯かけて仁徳を積むべしとあります。
徳川綱吉は日頃より「天下の人々に仁の心を育んで欲しい」と願い、周りの人々へ「慈悲」について考えを説き、勧めていました。
余談ですが、徳川綱吉の生母桂昌院は徳川家光の側室であり、八百屋さんの出身です。
本名を玉さんと言い「玉の輿(たまのこし)」の語源となった人物です。
八百屋さんの娘が将軍の側室になるのですから、まさにシンデレラストーリーだったのでしょう。
そんな徳川綱吉は残念ながら子宝に恵まれませんでした。
桂昌院は仏教に傾倒し、隆光僧正のもと仏門に帰依して徳川綱吉が子宝に恵まれるためにはどのような対策をすればよいのかを聞きました。
そのとき、隆光僧正はこのように答えました。
「上様(徳川綱吉)は戌年なので、犬を大切にしなさい。上様は前世で犬に酷い仕打ちをしました。その祟りが今生に出ているのです。」
母親からこのことを聞いた徳川綱吉は「犬を大切にする」ことを肝に銘じます。
さらに、当時の江戸では飼い犬は放し飼いにされていることが一般的でした。
当時江戸では100万人の人間が住み、犬は10万頭もおり、江戸の街中には野犬もいたので、もはや野犬か飼い犬かの区別がつかない状態でした。
そして、江戸という限られた地域にこれだけ多くの犬や人がいたので、当然人間が野犬に噛まれるといった事件が頻発し社会問題となっていました。
野犬に噛まれる側の人間も黙っていられないので、江戸の町人たちは犬の駆除を行ったり、犬に虐待を加える者も現れました。
弱い者いじめが大嫌いで、なおかつ犬を大切にしなさいと言われていた徳川綱吉はこのような社会状況に憤怒し、「お犬様を守るのじゃ!!」ということで西暦1685年に生類憐みの令の最初となるお触書を発布します。
生類憐みの令は趣旨がブレブレ
生類憐みの令は西暦1685年の7月に第一弾が発布されました。
そのときのお触書には
- 傷ついたお犬様は犬医師に診せるべし
- 犬が喧嘩をしているときは水をかけて喧嘩を止めなさい
というものでしたが、当時の江戸町人はこれを無視する者がほとんどでした。
徳川綱吉はお触書を守らない江戸町人への対抗策として、犬目付という犬が虐待されないように町人を監視する役人を町中に配置したりしました。
そうしているうちに徳川綱吉は子供を授かるのですが、やっと授かった長男が5歳という若さで早世してしまいます。
この長男の早世がキッカケとなり、どんどん生類憐みの令の内容や違反者への処罰はエスカレートしていきました。
さらに当初は愛護する対象が犬のみであったのに孤児、傷病者、老人に続き、猫、鳥、魚介類や虫までもが愛護の対象となりました。
生類憐みの令の違反者が受けた処罰の例
そんな生類憐みの令の違反者が受けた処罰の例をご紹介します。
こんな事でここまでの処罰を受けなければならないかと思うと衝撃的です。
罪状:噛みつかれそうになった犬を刀で斬って怪我を負わせた
処罰:江戸払い(江戸から永久追放する刑罰)
罪状:犬を斬って遺体を投棄した
処罰:磔(はりつけ:磔台に囚人を括りつけて槍で刺殺する刑罰)
罪状:子犬を井戸へ捨てた
処罰:市中引き回しの上獄門(江戸じゅうを馬に乗せられて引き回された後打ち首にし、その首を3日間人前に晒される刑罰)
生類憐みの令が天下の悪法と言われる理由

さて、生類憐みの令は一見すると動物愛護の観点から当時では考えられないほど平和的でよい法令かと思われますが、後世では天下の悪法だと言われています。
それではなぜそのように呼ばれているのか、その理由たるやズバリ!
《たくさんの人々を長い間陥れ、困らせたから》です。
生類憐みの令で禁止された事柄や政策を以下に示します。
【食用目的の生き物の殺生、養殖を禁止】
徳川家康(とくがわいえやす)が江戸幕府を開き戦乱の世が終わると、世間では商売が盛んになり好景気になりました。
戦国時代までは「ごはんを少しでも食べられたらよい」という状況が長く続いたのですが、江戸時代なると「おいしいものを食べる」という発想が生まれます。
結果として外食産業が盛んになり、食事を提供する店舗がどんどんできました。
そして、日本人もイノシシの肉や馬肉、鹿肉などを食べるようになります。
しかし、徳川綱吉の出した生類憐みの令のひとつ「肉を食べること、食用目的で動物を育てること、肉を食用として提供する商売は禁止」というお触書が出てしまったため、お肉屋さんは廃業、転職を余儀なくされました。
また、うなぎ屋さんや新鮮なお造りを提供する料亭や居酒屋のような店舗も同じく営業活動ができなくなってしまいました。
【動物を見世物にすることを禁止】
江戸時代の娯楽には猿や蛇に芸を仕込んでそれを披露することを生業とする芸人が登場します。
ところが生類憐みの令によって蛇使いや猿回しといった職業の人々が路頭に迷ってしまいました。
【金魚や亀を水槽で飼うことを禁止】
生類憐みの令はさらにエスカレートし、保護の対象は魚や亀にも及びました。
徳川綱吉は水槽など狭い環境下で金魚や亀を飼育することを禁止し、池や堀に放すように命令しました。
【蚊の殺生を禁止】
夏になると煩わしい虫が人間たちを悩ませます。
その一種である蚊がもし血を吸うために自分の肩や顔に止まったら誰しもペチンと叩いて蚊から身を守ろうとするでしょう。
しかし、生類憐みの令には蚊を叩いて殺すことを禁止していたので、もし蚊が自分にとまってしまった場合は扇子やうちわで風を当て、自然に蚊を追い払わなければ最悪切腹という処罰が与えられました。
【犬専用施設 御囲と犬専用駕籠の新設】
徳川綱吉の出した生類憐みの令では犬の食事に関するお触書もあります。
その内容はというと「お犬様には1日三食の白米、おかずにイワシを与えること」とあります。
当時の庶民は一日に3度お米を食べることさえできません。
犬1頭を飼育するだけで自分たちよりも食費がかかってしまうため、愛犬を泣く泣く手放す人々が続出します。
すると、元飼い犬が飢え死にしてしまったり、野犬と化して人々に危害を加えることもありました。
犬公方のあだ名は伊達ではありません。
徳川綱吉は現在のJR中野駅とその周辺がスッポリとおさまる規模の犬専用施設である御囲を新設して江戸中の犬を保護しました。
御囲の面積は東京ドーム約20個分の広さで収容頭数は約10万頭です。
また、保護された犬は犬専用の駕籠に乗せられてどんどん御囲へと収容されました。
さらに御囲の年間運営費は現在の価値に換算すると約28億円。
しかも幕府が負担する資金はそのうちの半分にも満たず大半は町人たちから搾り取りました。
当時の町人たちは約20年間、犬のためだけに自分たちよりも高い生活費を負担する羽目になったのでした。
まとめ
徳川綱吉が発布した天下の悪法と名高い《生類憐れみの令》はたくさんの人々を20年以上混乱に陥れ、困らせた法令でした。
生類憐みの令は徳川綱吉が将軍に在位した24年の間に次々と発布された法令の総称のことを指し、犬を愛護することを主体として過激な処罰や禁止事項、動物保護目的の政策が出されました。
そして《生類憐みの令の終わり》についても述べておきたいと思います。
綱吉は死の間際、生類憐みの令を自分の死後100年継続するようにと遺言を残しますが、次期将軍第6第の徳川家宣が綱吉の死後10日でやっぱり過激すぎる法令だということで廃止しました。
その後も一部復活するようなこともありましたが、8代将軍徳川吉宗が完全に廃止しました。
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