戦国最強の槍名人 徳川四天王『本多忠勝』の豪傑列伝!!







戦国武将の中でも敵味方に関係なく高評価を受け、徳川幕府最古参の旗本譜代大名となった『本多忠勝』は、徳川四天王のひとりに数えられる武将です。

今まで数々のゲームやドラマ、映画でその勇姿を描かれているわけですが、そのビジュアルに劣らないほどの武勇を誇る武将でした。

 

徳川四天王 本多平八忠勝

 

本多忠勝は徳川四天王の一人として数えられ、数々の戦に連戦して徳川家康が三河の小大名だったころから江戸幕府初代将軍となるまでの軍事を一生涯に渡って支え続けた徳川最古参の譜代大名です。

本多忠勝は1548年に三河の安祥松平(徳川宗家)最古参の家臣本多氏の分家である本多忠高の長男としてこの世に生を受けました。

分家ということで、立場は本多本家よりも劣っていたのですが、父親、叔父、そして本多忠勝と戦で活躍し続け、本家をも凌ぐ地位まで成り上がりました。

 

本多忠勝の初陣は13歳のとき。

桶狭間の戦いの前哨戦に参加し、初陣と同時に元服をしました。

そのため、彼が元服の儀式を行ったのは居城ではなく戦場の陣営内でした。

以来、生涯を通して57戦の戦に参加し続けます。

 

本多忠勝は14歳で初首を討ちとった

 

初首(はつくび)とは、武将たちが人生で初めて討ちとった首級のことを指します。

本多忠勝の記念すべき初首を上げた戦は烏屋根城攻めでのことでした。

 

本多忠勝はこの戦いで自身の叔父忠真が指揮をとる部隊にいました。そして叔父の忠真は、本多忠勝に武功を与えんと、槍で敵兵を突き刺しこっそりと本多忠勝を呼んで「この首をお前の戦功として持っていけ」と言いました。

忠真なりの甥っ子に対する愛情だったのですが、本多忠勝はきっぱりと断ります。

そして「我何ぞ人の力を借りて、以って武功を立てんや」と言うと、敵陣めがけて駆け入り、見事敵将の首級を持ち帰りました。

これを見た忠真はじめ本多家中の諸将は、本多忠勝が只者ではないと確信したそうです。

 

一言坂での戦いで殿を務め、信玄公が狂歌を送る

 

一言坂の戦いは遠江国二俣城を巡って徳川家康と武田信玄が争った戦いです。

武田信玄はこれと並行して織田信長包囲網に備えるべく、秋山虎繁を美濃へ差し向け、自ら率いる本隊は遠江に進軍しました。

二俣城は徳川家康の居城浜松城とその支城掛川城や高天神城にもつながる要所で徳川家康にとって遠江支配の要の城でした。

しかし、三河の防衛にも軍を割かなければならず、徳川家康は8千の兵しか動員することができず、盟友の織田信長も戦果の渦中にいたため援軍が望めない状況でした。

ようするに戦火を交える前にすでに徳川家康は武田信玄の手のひらの上で踊らされていたのです。

 

そんな危機的状況下のなかでどうしても天竜川を渡らせたくない徳川家康は本多忠勝と内藤信成にそれぞれ2千5百ずつ兵馬を任せて先行偵察をさせ、自身も3千を率いて偵察にでました。

武田信玄の部隊の進軍は徳川家康の想像を遥かに凌駕していました。

なんと、武田信玄はさらに3千の兵士を分割して内藤信成の部隊に当たらせ、2万7千の軍勢で徳川本陣まで詰め寄って来たのです。

あまりの敵の多さに徳川家康は戦うことを断念し、本多忠勝を呼び戻して撤退を開始します。

 

本多忠勝はすぐに徳川本陣に飛んで帰り、撤退戦でいちばん難しい役目である殿を引き受けました。

殿とは撤退戦において最後尾に位置する部隊のことで、まず生きて帰れる保証はないとされる役目でした。

3千対2万7千という9倍の兵力差で始まった撤退戦は正に地獄絵図でした。

 

本多忠勝は一言坂の下にという地形的に不利な土地を陣取り、即席の部隊を構成して抗戦の構えをとりました。

対する武田軍は向かうところ敵なしの馬場信春が先陣を切って容赦なく突撃し、先回り(本多隊よりもさらに坂の下)していた武田信玄の近習小杉左近がたまらず後退した本多隊に鉄砲玉を浴びせました。

そこで本多忠勝の下した決断は、小杉隊に突撃して敵陣突破すること。

決死の覚悟で本多隊は小杉隊に突撃しました。

小杉左近は本多隊の胆力に感服し、迎え撃つことなく道を空け見逃すように命令しました。

このとき、本多忠勝は下馬して小杉左近に感謝の言葉を述べ立ち去りました。

そしてこのときの本多忠勝を武田信玄はこのような歌にして評価しました。

 

「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」

 

唐の頭とは徳川家康が中国から来た難破船から見つけたヤクの毛を装飾した珍しい兜のこと。

徳川家康愛用の兜です。本多平八とは本多忠勝のことです。

 

寡兵で敵を挑発

 

小牧・長久手合戦は徳川家康と豊臣秀吉が衝突した戦いですが、数々の戦いをひとまとめにしてこのように読んでいます。

小牧・長久手合戦のある戦いで本多忠勝の豪胆さが垣間見ることのできる逸話があります。

その戦いでは徳川家康と豊臣秀吉の戦力は圧倒的に豊臣方が有利でした。

徳川家康は戦力を温存するため、少しの兵を何度も何度も差し向けて、先制攻撃を与えたらすぐに逃げるということを何度も行う作戦に出ました。

豊臣の兵士が面食らっているうちに逃走しなければいけないので、逃走するにはスピードが要求され、時には囮もつかわなければいけませんでした。

 

河を隔てたところで対峙したとき、渡河した豊臣軍を次々に攻撃して順次逃走を開始しました。

ところが、敵の数があまりにも多くて徳川家康は逃げるタイミングがなかなかはかれません。

そのため、本多忠勝が徳川家康を逃がすための提案をします。

それは挑発行為をすること。

 

本多忠勝はたった500の兵士だけを率いて河に陣取り、豊臣軍に罵声を浴びせて挑発しました。

さらに馬に水を飲ませてかなりの余裕を見せます。

ここまで挑発された豊臣軍の諸将はいてもたってもいられません。

豊臣秀吉に直々に「本多平八を討たせてください」と口々に迫りました。

 

しかし、豊臣秀吉はそれを制止します。

「ああやって余裕を見せているのはあの後ろに徳川全軍が潜伏しているからなのかもしれない。挑発にまんまと乗って河を渡りはじめたら一斉攻撃をする算段があるからだろう。もしそうなれば、足場のよくない河の中でわが軍は格好の的になってしまうのだから、相手にするな」と。

そしてこれ以上挑発行為を見せては、悪影響が出るかもしれないと豊臣秀吉は撤収を命じました。

豊臣秀吉の優れた思考力を逆手にとる、有効な作戦でした。

 

主君の優柔不断な欠点を身をもって諫める

 

三方ヶ原の戦いなど己の短気さや無謀な作戦で多大な被害を出した徳川家康は、壮年期になると反省した結果、優柔不断な主君になってしまいました。

若いときは考えるよりも先に身体が動いていたのにまるで別人のようによく考えこむようになりました。

そして、「今こそ好機」というタイミングでもなかなか攻撃の指示を出すことをしなくなりました。

 

小牧・長久手合戦のときにもそれが顕著に現れます。

井伊直政や本多忠勝などが「今こそ好機ぞ、突撃のご下命を」と進言しても「いやいや、待て待てもう少し考える」となかなか決断しませんでした。

すると本多忠勝は雄たけびをあげると単騎で敵陣めがけて突撃しました。

他の徳川四天王や諸将たちが「えっ」と呆気にとられているうちに、本多忠勝は日本三大名槍の一本蜻蛉切を縦横無尽に振り回して敵兵を薙ぎ払います。

しかし、あっという間に敵に取り囲まれてしまいました。

これではまずいということでさすがの徳川家康も「皆の者なにをしている、忠勝を死なせるなっ、いけー」と切羽詰まって突撃命令を下しました。

 

しかし、豊臣方では単騎で突っ込んできた本多忠勝を討ち取ることは難しくありませんでした。

それでも本多忠勝が生き残れたのは豊臣秀吉が本多忠勝を討ちとることを禁じたためです。

「敢えて寡兵で我が軍に挑むは、真の忠臣の為せる業ぞ。家康を討ち取った後、忠勝が欲しい。だから何があっても忠勝だけは殺すな」と命令していたのです。

 

まとめ

 

本多忠勝という武将は、智謀、戦闘力、胆力などが抜群に秀でた人物でした。

愛槍蜻蛉切は刃渡りが約50cm、全長が二丈余(約6m)もある巨大な武器でした。

それを自由自在に操るには相当なパワーです。

また意外にも軽量な鎧を愛用していて、防御や攻撃よりも回避(避ける)することに重きを置いた戦い方をしました。

そして、体力の衰えを感じると蜻蛉切の柄を切って扱いやすく改良するなど、能力や状況を冷静に判断できる武将でもありました。

本多忠勝が戦国最強と言われる所以は智謀、戦闘力、胆力という武将にとって必要な要素がすべて人並み以上に優れていたからに相違ありません。

無敵の武将『本多忠勝』と愛槍『蜻蛉切(とんぼぎり)』の歴史

2017.09.27











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