大化の改新は西暦645年「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が協力して蘇我入鹿(そがのいるか)を誅殺した事件」というように一般的にはこのように認識されているようですが、少し誤解があります。
確かに上記の事件は大化の改新のキッカケとなった事件ですが、厳密にはこの事件のことを「乙巳(いつし)の変」といい、大化の改新の前哨戦に過ぎません。
『大化の改新』とは「乙巳(いつし)の変」後の改革全般のことを指して言います。
それでは、その大化の改新という改革はどういったものだったのかを簡単にわかりやすく解説していきます。
まず、なぜ大化の改新を誤解して覚えてしまったのか?

中大兄皇子

中臣鎌足
ゆとり世代と言われる私たちの年代までは大化の改新のことを
「西暦645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が協力して蘇我入鹿(そがのいるか)を誅殺した事件」
というように覚えていました。
この事件は実際には冒頭に説明したとおり、「乙巳(いつし)の変」といい、大化の改新のきっかけになった事件にすぎません。
なぜ我々はこのように誤解して覚えてしまっているのでしょうか。
それは当時の指導カリキュラムで定められていた指導要領や教科書の編集上の問題で情報のまとめ方に問題があったと見てよいでしょう。

乙巳(いつし)の変
乙巳(いつし)の変は大化という元号が使用される以前に起きていた事件なので、それを「大化の改新」に含めてよいのか?
という指摘は古くから歴史研究者の間で問題視されていました。
そのため最近の教科書では蘇我入鹿が中大兄皇子らに殺害された事件を「乙巳(いつし)の変」、その後、大化という元号が使用されてから行われた数々の改革のことを「大化の改新」として指導するように指導方法が改訂されたようです。
大化の改新の始まり

皇極天皇
それでは新しく「大化の改新」の始まりと定義されたのはどこからなのかを示しましょう。
乙巳(いつし)の変があったときの天皇は日本史上2人目の女帝だった皇極天皇(こうぎょくてんのう)です。
皇極天皇の実子は中大兄皇子なので、中大兄皇子は皇太子の身分でした。
皇極天皇は 乙巳(いつし)の変のショックが大きく、皇位を退いて中大兄皇子に譲位(じょうい:位を譲ること)しようとします。
しかし、中大兄皇子がこれを辞退したので皇極天皇の弟の軽皇子(かるのみこ)か中大兄皇子の異母兄の古人皇子(ふるひとのみこ)のいずれかに譲位することになりました。
ふたりの皇子は叔父と甥という間柄でしたが、両者位を譲り合ってなかなか次期天皇が決まりませんでした。
すると古人皇子が
「どうして無理に私を皇位に継がせようとなさるのか?それならば私は出家して吉野へ行きましょう。仏門に下り天皇の幸せを切に願います」
と言ってすぐに出家してしまったため、軽皇子が皇位を継承することになりました。

孝徳天皇
軽皇子こそ大化の改新を始める孝徳天皇(こうとくてんのう)です。
孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子として任命し、阿部内麻呂(あべのなかまろ)や蘇我倉山石川麻呂(そがのくらやまのいしかわまろ)、中臣鎌子(なかとみのかまたり)などを大臣に抜擢して新体制を作りました。
そして、日本で初めて使われる元号の「大化」を定めて新政権を確立しました。
これが大化の改新の始まりとされています。
大化の改新の改革宣言「改新の詔」
大化の改新を進めるにあたり、孝徳天皇は中大兄皇子や中臣鎌足などの大臣と相談して本格的な改革を行います。
その宣言として出されたのが「改新の詔」です。
改新の詔は大化の改新の方針を明文化したもので、4つの項目からなっています。
大化の改新の第一条 公地公民制(こうちこうみんせい)の導入
改新の詔の第一条には「土地と人民のすべてを公有する」とあります。これを公地公民制と言います
大化の改新以前は土地と人民は皇室と豪族の私有ということになっていました。
それが大化の改新後は国有の公地と国有の公民という位置づけになりました。
そのため、皇室と豪族には私有地を廃止と今後の所有を禁止し、その代わりに豪族には食封と呼ばれる土地が支給されました。
大化の改新の第二条 中央・地方の行政制度の整備
改新の詔の第二条には「中央集権体制」が明記されました。
大化の改新以前は氏姓制度という大王(天皇)を中心とする豪族の連合政権で政治が行われていました。
それが、大化の改新以後は天皇を頂点とする中央集権国家とする律令政治が行われました。
律令政治下では、近畿地方内部の京師、国、軍が設置され、有能な豪族が国司や郡司を任されました。
それまでは豪族が独断で自分の領内の役人を決めていたのが天皇の信頼のおける者が役人となったことで、天皇の息のかかる役人が地方や都心に派遣されました。
さらに関所や駅、太宰府などの防人を駐屯させておくための国家防衛機関や交通機関、税務機関が設置されることとなりました。
大化の改新の第三条 戸籍や土地の割り当て
大化の改新後の改革で重要なキーワードとして挙げられるものの中に「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」という法律があります。
天皇は全国に展開していた寺院に人民の掌握と戸籍の管理を一任し、人民が子供を産むと「戸籍に登録」、人民が死亡すれば「戸籍から抹消」、といった手続きをすることによって戸籍謄本の作成と維持管理をさせることになりました。
そして戸籍に基づいて人民には耕作地となる班田が与えられ、死亡後は班田を国家に返却することを定めたのが班田収授法になります。
大化の改新の第四条 税制の制定
大化の改新では租税に関するルールが明確に定められるようになりました。
お米などの年貢を納める租(そ)、労務を課す庸(よう)、繊維製品等の特産品を納めさせる調(ちょう)、という税制を定めました。
これを「租庸調(そようちょう)」といいます。
大化の改新の最大の目的 天皇の神格化
大化の改新以前の天皇の位置づけは有力な豪族のひとつという認識に過ぎませんでした。
それが大化の改新以後は天皇は最も高い地位として公式に認識されるようになります。
まとめ
大化の改新は日本史上初にして現在の社会でも十分に通用する制度や体制を確立した改革です。
大化の改新で重要な改革
- 公地公民制の導入
- 中央集権体制の整備
- 人民へ戸籍や土地の割り当て
- 戸籍に基づいて班田を与える「班田収授の法」
- 税制「租庸調」の制定「租(米)」「庸(労務)」「調(特産品)」
- 天皇の神格化
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