あなたの理想とする上司はどのような上司でしょうか?
《仕事がバリバリ出来る上司が良い》という人もいれば、《部下の立場のことをよく考えてくれる上司が良い》、などと思う人もいるでしょう。
このように、理想とする上司像は人によって千差万別だと思います。
歴史を研究していると、数多くの偉人たちに出会い、「この人がもし自分の上司だったら…」と想像を膨らませることがあります。
そして私はその中から『平清盛(たいらのきよもり)』こそ理想の上司であるという結論に至りました。
世間一般的には悪役として知られる平清盛をなぜ推すのか。
平清盛の上司像を見ればその理由が自ずとお分かりいただけるでしょう。
平清盛は悪役の親玉?
世間一般的に『平清盛』は悪役の親玉のように認識されています。
それはおそらく「平家にあらずんば人ではない」といった風潮を生んだことや、源頼朝(みなもとのよりとも)や源義経(よしつね)をはじめとする源氏を正義のヒーローとして描く、判官贔屓(はんがんびいき)の解釈が長く受け継がれてきたからだろうと思います。
しかし、実際の平清盛は非常に優しい性格で、敵味方に関係なく温情をかけるなど、度量の広い立派な親分でした。
平清盛は部下の立場を理解しようと努めた理想の上司だった
平清盛がまだ子供の頃、当時は生まれた家柄によってその人の人生はほぼ確定していました。
武士という身分は決してよい身分ではなく、貴族たちからは下賎な連中だと言われていました。
平清盛少年もその例に漏れず、よく貴族の子供達からイジメにあっていたそうです。
平清盛は何をされても、何を言われても、決して仕返しをしたり反撃をせずにグッと屈辱に耐え忍び、《いつか自分をいじめてきた貴族たちを見返してやるぞ》という心意気で日々仕事に精を出しました。
その甲斐あってか、20代後半には現在の山口県の守護職を与えられ、30歳になると広島の守護職に栄転、その後太宰府を経て38歳という若さで太政大臣(現在の内閣総理大臣)へと多くの貴族たちを差し置いて異例の大出世を果たします。
平清盛は武家史上初の太政大臣に就任しても驕ることなく、身分の低い者たちの立場を理解しようと常に努力し、部下の相談に乗ったり、挫けそうな同僚を励ますなど、優しい一面を持っていました。
平清盛は部下を叱責するとき人前では決して行わなかった
仕事をする上で上司という立場になったら、部下が失敗をしたときや無礼を働いたときは叱責してよい方向へ軌道修正しなければなりません。
しかし、部下を叱責するときに他の同僚や部下たちがいる前で行うのも考えものです。
部下の気持ちがわからない上司はその場ですぐに叱ってしまうものですが、理想の上司像である平清盛は違います。
平清盛はすぐに叱責しなければならないときは別室に呼び出してから叱ったり、みんなが帰宅した頃や後日二人になったときなどに行って部下の体面を保とうとしました。
この件について平清盛は他の貴族たちから文句をつけられたことがあるそうです。
「なぜ部下をすぐに叱らないのか」
それを貴族達から問われたときに平清盛はこのように答えています。
「部下であっても一人の人間であり、人の子であり、人の親である。部下とて体面があり、それを保ってやらなければ都合が悪かろう。都合が悪くなれば素直に言うことを聞けないだろう。」
平清盛は瀬戸内海の海賊を海軍に組み込んだ
平清盛が所領とする瀬戸内海は朝廷への献上品や中国への輸出品を運ぶ海上ルートでした。
ある時、その荷物を運んでいる船を襲う海賊が続出しました。
平清盛は海軍を持っていたので、朝廷からの正式な命令を受けて海賊の討伐を行い、それに成功します。
ここで本来ならば捕まえた海賊を処刑しなければならないのですが、海賊たちの事情聴取をしていくと彼らも食糧難や経済難に会い、やむを得ず犯罪に手を染めたことを知りました。
平清盛は海賊たちの情状酌量の余地があること、また彼らが優秀な船乗りであることを考慮し、自身が保有する海軍に海賊たちを組み込むことにしたのです。
このとき組み込まれた海軍たちは平清盛から受けた恩を忘れず、源平合戦のひとつである屋島の戦いや壇の浦の戦いに参戦してその手腕を発揮しました。
源頼朝、義経ら兄弟とその母常盤御前に温情をかけた平清盛
『保元の乱』にて平清盛は源頼朝、義経兄弟の父義朝(よしとも)と対立しました。
義朝は謀反を起こして上皇と天皇の身柄を拘束します。
平清盛は一度は屈服したかのように見せかけておいて、御所に放火し、混乱に乗じて上皇と天皇を救出しました。
そして、源氏の軍勢を打ち破り見事乱を鎮圧します。
このときまだ13歳だった源頼朝も参戦していて弟の義経はまだ母の常盤御前(ときわごぜん)の手を離れられない乳児でした。
義朝は故郷まで逃走する途中で家臣に裏切られて暗殺され、頼朝は縄で縛られて平清盛の住む六波羅の屋敷へと連行されました。
母である常盤御前は乳児の義経と自身の生んだ2人の幼児を連れて子供たちの助命嘆願を行いました。
平清盛はまだ幼いということで頼朝は伊豆へ島流しにして監視をつけるだけという処分を下しました。
常盤御前の生んだ義経を含む3名は出家させることを条件に命を助けることを約束します。常盤御前は自分の側室とすることで特に罰を与えませんでした。
常盤御前を側室としたことで、後世の人々からは未亡人を奪い取った汚いやつと後ろ指を指されることとなるのですが、当時の常盤御前は上皇と天皇を拉致した犯罪者の妻という立場だったので、そうでもしないと命を助けることができなかったと考えられます。
まとめ
平清盛は仕事をバリバリにこなし、若くして出世を果たします。
そんな若くして出世した平清盛ですが、部下の気持ちを常に理解することに努め、人前で部下を叱らないようにするなど、部下への気遣いを怠りませんでした。
そして、敵味方に関係なく温情をかけた平清盛。
ある時は海賊に温情をかけて仕事を与え、ある時は幼子や未亡人の女性へ温情をかける。優しい心の持ち主であったようです。
仕事はバリバリこなし、部下に気遣い、優しい心で人に接する、そんな平清盛こそ、理想の上司像と言えるのではないでしょうか。
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