平将門の壮絶な人生!日本三大怨霊の一人、平将門は実は優しい人物だった?







平将門(たいらのまさかど)は平安時代初期から中期頃に活躍した豪族です。

没後の平将門は、菅原道真(すがわらのみちざね)、崇徳天皇(すとくてんのう)と並んで、日本三大怨霊のひとりに数えられています。

平将門の祟りは平安時代から現代まで及すと言われるほど強い怨念を持った怨霊となったのです。

 

この日本三大怨霊の一人になることになった平将門ですが、朝廷に対して謀反を起こしたことから、悪役の筆頭として後世に名が伝わるようになりました。

しかし、平将門の伝記を読むと意外な事実が判明します。

生前の平将門は良き兄であり、良き主導者だったのです。

その実像はなぜ怨霊となって今なお祟り続けるのかが不思議なほど優しい人物であったことがわかります。

本記事では日本三大怨霊と伝えられる平将門の人生と、その優しい一面について綴っていきます。

 

《平将門》最も強力な怨霊が優しい?

 

平将門は平安時代中期に坂東(関東地方)を独立国家として、自らを「新皇(しんのう)」と名乗り、朝廷に反旗を翻した武将です。

この事件のことを俗に「平将門の乱」、もしくは「将門の乱」と言いますが、この首謀者となった平将門は平安三大怨霊のひとりとして数えられ、その中で最も怨念が強い怨霊であることが有名です。

怨霊となって死後も長きにわたって祟りを及ぼす平将門ですが、その実像は後に怨霊となることが嘘ではないかと思えるほど、とても優しい人でした。

 

優しい人になる原点はここにあり 平将門苦労の前半生

 

平将門は平安時代後期に栄華を極める平清盛の祖先だと言われています。

しかしながら、平将門が生きていた時代、平氏の身分は低く、天皇陛下にお目通りを叶うことさえも許されない身分でした。

平将門は平安京を建てた桓武天皇から数えて5代目の孫にあたり、祖父の高望王は宇多天皇(うたてんのう)から正式に平姓を賜った人物です。

その高望王には長男の平国香(たいらのくにか)、次男の良兼(よしかね)、三男の良将(よしまさ)ら9人の息子と娘がひとりおりました。

 

平将門の父は高望王の三男、平良将(たいらのよしまさ)で、兄たちを差し置いて鎮守府将軍となり、蝦夷征伐をしながらも関東地方の土地開発を進め、当時沼地や湿地帯だった坂東を人が住める土地へと変えていった人物です。

平将門の父である平良将はとても温厚かつ社交的な人物だったそうで、蝦夷(えみし)を討伐する立場でありながら蝦夷と良好な関係を持ち、無駄な血を流さずに懐柔させていくような優れた政治手腕を誇る人でした。

 

ところが、平良将にも欠点がありました。

それは大酒飲みということです。

そのため平良将は長男の平将門が元服する前に病のためこの世を去りました。

 

このとき平良将はまだ30代前半で、平将門はまだ10歳をすぎたばかりであったと伝えられています。

そんな早くに父を亡くした平将門ですが、父譲りの優しい性格で、弟や妹から慕われる優しいお兄さんでした。

 

弟と妹守るため、苦渋を舐める平将門

 

父の平良将が亡くなったとき、平将門はまだ10歳。

弟や妹はまだ小学校低学年や幼児、乳児といった具合にまだ幼い年齢でした。

平将門はやむなく、父親の長兄だった平国香(たいらのくにか)を頼りました。

 

平将門がまだ幼い弟や妹、母親を連れて平国香のもとへ訪ねると、国香は「よく来た、よく来た」といってみんなを招き入れました。

平将門もすっかり信用してしまったのですが、平国香は悪い叔父さんだったのです。

平将門の弟や妹を人質にとり、平将門の優しさにつけこんで父の良将から受け継いだ兵権(へいけん)と土地の権利書を預けろと言って、逃れられない状況下で社会の右も左もわからぬ平将門からそれらを取り上げてしまうのです。

 

「家族を守るためだから仕方ない」とそれらを差し出した平将門ですが、彼が15歳になって元服すると叔父の国香は次なる試練を与えます。

それは「京へ上り、検非違使(けびいし)を務めろ」ということです。

検非違使とは京都に設置された警察官のような役職です。

そのため、平将門は家族と離れて単身京都へ赴き、そこで12年という歳月を送ることになります。

 

検非違使長官の夢ついえ帰郷し復讐の火を灯す平将門

 

平将門は当時権勢をふるっていた藤原氏のひとり、藤原忠家(ふじわらのただいえ)に仕え、検非違使長官を志しますが、「家柄が低い」という理由だけでそれを突っぱねられてしまいます。

「ここにいてもこれ以上は望めないなぁ」と感じた平将門は亡き父親の跡を継ぐことを許され、検非違使を辞任しました。

故郷であり、自身が治めるべき下総国(しもうさ)へ平将門は12年ぶりに帰ります。

すると、平将門がいないうちに大変な事態になっていました。

 

叔父の国香が当初「預かる」という名目で平将門から没収した土地や兵力を自分のものにし、弟や妹は散り散りにされていました。

さらには、関東地方の土地の支配権をめぐって平氏の一族間で領土の奪い合いをしていたのです。

 

そんな中、もともとの持主が来てはたまったものではないと思った国香(くにか)は、目の上のたんこぶだった平将門を亡き者にしようと、帰郷途中の平将門一行を襲撃しました。

ところが、平将門は強かった。

なんと3倍もあった国香の軍勢をコテンパンに返り討ちにし、国香とその息子を自らの手で討ち取り、もともとの所領と家族を取り返した上、国香が治めていた常陸国と常陸守を手にしたのです。

 

優しい平将門はいつでも民の味方

 

古来より、強い人は優しいと言われてきました。

平将門はもともと故郷の下総国を取り戻すことができればそれでよかったのです。

ところが、平氏の一族間の争いが地域に住む民たちを困らせていることに気づいた彼は、早期決着させて関東地方に再び平和をもたらそうと猛攻撃を開始します。

平将門が急速に常陸、武蔵、上総を支配下に加えていったのは民を思う優しい心からの行動でした。

 

また、平将門は賄賂を徴収しようとする貴族や豪族に対し、常に敵対してたびたび悶着を起こしていました。

平将門は賄賂を贈ったり、貰ったりするのを嫌い、自分に賄賂を与えようとした貴族を屋敷から締め出したこともありました。

そのため朝廷の役人からは嫌われていたのに、民たちからは多くの支持を得ていました。

 

そんな中、都とは打って変わって関東地方は朝廷からの理不尽な徴税と徴兵に悩まされており、民は貧困や疫病であえいでいました。

一方都の朝廷はと言うと、朝から晩までやれ歌合せだ、やれ蹴鞠だと娯楽の限りを尽くしていました。

貧困にあえぐ民を哀れみ、それを度外視して遊興にふける天皇や貴族に対し、平将門は常々憤りを覚えていました。

 

それに追い打ちをかけるように富士山が噴火して関東地方は大飢饉に陥ります。

平将門は貧困に苦しむ民を守らんがため、一念発起し朝廷と敵対することを選びました。

そして、関東を民の住みやすい理想郷にするべく戦い続けるのです。

 

優しさが仇となって平将門の乱になる?

平将門が関東地方で起こしていた関東を平定するための戦いはもちろん天皇の耳にも入っていました。

しかし、当初は「あいつの好きにさせとけばいいじゃない?」くらいで特に危険視していなかったそうです。

 

しかし、度々賄賂を求める貴族と悶着を起こしたり、不良行為が過ぎて都を追放された興世王(こうよおう)や脱税のために罪人になった貴族を優しく迎え入れて庇護したので、徐々に朝廷から目を付けられる存在となっていきます。

そのうえ興世王から「このさい関東に新しい国を作って新皇と名乗ってはいかが?」と唆され、またそうなることを関東の民たちが望んだので平将門は言われるがまま「新皇(しんおう)」を名乗ります。

 

このせいで朝廷は大混乱に!

「陛下いよいよ見過ごすわけにはいかないでは?」

と口々に官僚たちは意見しましたが、時の天皇は「名乗るだけならまだいいじゃない?非公式なのだから」と真面目に取り合いませんでした。

 

ところが平将門は朝廷から目を付けられる失態を犯してしまいます。

朝廷から派遣されてきた賄賂を求めたり、民から法外な租税を搾取しようとする常陸国の役人をいつものように締め出したのですが、そのときに常陸国の役人であることを証明する印綬(いんじゅ)を取り上げてしまったのです。

印綬を取り上げたのは、二度と朝廷からこのような役人を自国に入れさせないようにするための対策として行ったことでした。

 

しかしこれが大きなきっかけとなり

「印綬は天皇が直々に与えたもの。それを奪う行為は天皇に対する謀反である」

ということで、さすがの天皇も激怒します。

そして平将門の討伐を藤原秀衡に命じ、平将門は朝廷に仇なす朝敵として天下に知れ渡ることとなるのです。

 

まとめ

 

いかがでしょう?

こちらの記事を読めば日本三大怨霊の中で最も怨念が強いと言われている平将門がどれだけ優しい人であったのかがお分かりいただけたかと思います。

 

優しいが故に朝廷が悪人とした人々に助けの手を差し伸ばし、優しいが故に自身が代表者となって朝廷に立ち向かい、そして志なかばで命を散らした平将門。

彼を優しいと言わずに誰を優しいと言えばよいのでしょうか










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