武田信玄の死因はなんだったのか?鉄砲による負傷?ガン等の病気?







武田信玄の最期は戦場で漢花を散らせる陣没です。

武田信玄死因については諸説ありますが、

それは老衰でしょうか。

はたまた別の病気やケガなのでしょうか。

本記事では武田信玄死因について考察、解説します。

 

武士らしく陣没した武田信玄

「家臣を満足させるためには領土拡大しかない」という領土最大化計画を実行し、王道的な軍事国家を形成しよとした武田信玄は、転戦転戦を重ねた末1573年の4月12日に信州伊那郡駒場にて、武士らしく甲冑を着たまま陣没しました。

武田信玄の享年については、数え年で表記している文献と実年齢で表記する文献があり、52~53で陣没したと考えられています。

死因については「鉄砲に撃たれたことによる傷がもとで陣没した」という説と「戦場で病状が悪化したことで陣没した」という説があります。

 

鉄砲傷による陣没か?病気による陣没か?

鉄砲説に注目してみると「三方ヶ原合戦記」「武徳編年集成」、その他多くの書物に武田信玄が鉄砲によって被弾していたことを記録しています。

その鉄砲傷がどこにあったのかというのは、眉間、耳とこめかみの間、太ももなどの部位にあったと書かれていますが、さまざまな憶測、風聞などが入り乱れて語り伝えられたものです。

 

これに対して病気説も、「甲陽軍艦」「関東管領記」、その他の史料もありますが史実的に見ると病気説のほうが色が濃いです。

病気説の場合はその病状について1568年から明確に書かれており、その翌年から武田信玄が自覚症状を訴えていたとすることについても詳細に記録されています。

 

また、甲陽軍艦や武田家の家臣である熊谷氏の家伝、御宿監物の申状には「膈(かく)」という病名や「肺肝」などの文字が書かれています。

 

これらの諸説をもとにして、明治時代に当時山梨県病院の院長を務めていた村松学佑「膈」というのは胃ガンの昔の呼び方で、「肺肝」は文字通り五臓六腑のことを指して使われた言葉であるので、武田信玄の死因はおそらく胃ガンがもとであっただろうと結論づけています。

以来、村松学佑が提唱した胃ガンがもとで陣没した説がもっとも説得力のある説として考えられ、学界から承認されています。

 

「3年秘喪」の遺言とともに陣没した武田信玄

跡目の武田勝頼

武田信玄が陣没したことは、甲斐国だけでなく国外にまで大きな影響を及ぼしました。

最も動転してしまったのは武田信玄の腹心だった重臣たちでした。

 

武田信玄は陣没するにあたり、いくつかの遺言を残しました。

その中で有名な「3年秘喪」というのがあります。

もし武田信玄が陣没したことが外へ漏れたら、それこそ甲斐国は恰好の標的となり、総反撃を仕掛けられ武田領はたちまち危機と混乱に陥ってしまうだろう。

だから少なくとも3年間は武田信玄が陣没したことを隠せという指示でした。

そのため、葬儀は執り行われず形式的には秘密が守られました。

 

しかしもうひとつ秘密にしろと指示した跡目の武田勝頼については、約3ヶ月間で自然とあばかれてしまいました。

武田勝頼は3年秘喪を守るため、後を継いだ3年間はおとなしく静観する構えを見せていました。

そして、きっかり3年が経ち喪が明けると、山縣昌景を高野山に派遣して喪明けの法事を執り行わせるとともに武田家の菩提寺である臨済宗恵林寺で盛大に納骨と葬儀、諡がなされました。

 

武田信玄、もうひとつの死因説「肺結核」

 

武田信玄は胃ガンによって陣没した可能性が高いと上記に書きましたが、もうひとつ死因として考えられているものに肺結核があります。

 

当時肺結核は不治の病の言われた深刻な病気でした。

武田信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康、織田信長の連合軍を撃破しさらに軍を進めようとしたみたいなのですが、結核が再発しあえなく中止されました。

武田軍は一度帰国しよと信州伊那郡駒場に宿泊するのですが、武田信玄は吐血が喉につまりこれがもとで窒息死したという説があります。

 

この説の根拠としているのは、武田信玄の侍医を務めた御宿監物からの手紙にある

「信玄公は肺肝に苦しむにより、病患たちまち腹心にきざして、安んぜざること切なり。華佗の術を尽くし、君臣佐使の薬を使うといえども難病さらに癒えず。日を追って病枕に沈む」

の一文に注目していることによります。

この説では村松学佑氏が五臓六腑のことであろうと読んだ「肺肝」をそのままの意味として受け取り、「肺が苦しいのなら結核であろう」とした考え方をする説です。

 

村松学佑氏の掲げる「胃がん」死因説はやっぱり正しい?

 

武田信玄のもうひとりの侍医に板坂法印という者がいます。

彼が口伝した言葉によれば武田信玄は1568年から膈病を患っていたとしています。

厳密には膈は胸から脾腹の間にかけての病気のことを言うそうです。

おそらく当時はあまり医学が進歩していなかったので、腹部の病気の総称を膈病としていたのではないかと考えられます。

また、板坂法印は「膈という病は、若いときからのさまざまな心労が積もりに積もって心身がともにくたびれたためにおこるものだ」と解説しています。

 

そして私は侍医を務めた二人や軍記を書いた者武田信玄の家臣たちが、鉄砲による陣没、結核による陣没、ガンによる陣没というように異なる要因を挙げているのはなにか裏があるのではと考えています。

同じ家中に出入りする者であれば、自ずと真実は判明するであろうし、同僚でしかも同じ仕事をする侍医同士であれば自分の診断や処方を相談し合うはずだと考えているからです。

おそらく、異なる死因を流布することによって敵国に真相が漏れることを未然に防ごうとしたか、あるいは闇に葬りさろうとしたのではないかと推測しています。

 

まとめ

 

武田信玄が陣没した死因については様々な説がありますが、私はガンであると考えます。

ガンはたばこや過度の飲酒、偏食や不規則な生活習慣などから発症されると思われがちですが、ストレスもその要因となっていることは否めません。

 

戦場で過ごすことがごく当たり前で、絶えずの戦や領民の一揆、家臣の謀反などの脅威にさらされていた武田信玄にかかるストレスは相当大きかったはずです。

内臓の部位を特定することは難しいですが、少なくともガンが武田信玄の死因であったことには変わりないでしょう。










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