甲斐の虎『武田信玄』の働き方改革!武田信玄が定めた働き方に関するルール







武田信玄は甲斐の虎と呼ばれ、戦上手な戦国大名として有名ですが、その一方でどの戦国大名よりも自分の家臣が働きやすい環境を作ることに重きを置いた方です。

本記事ではそんな武田信玄が行った働き方改革についてご紹介したいと思います。

 

どうしたら家臣たちが働きやすいのか?

現内閣総理大臣の安倍晋三氏も近頃は「労働者の働き方を改善する」、「働き方改革を国家を上げて取り組む」と国会の答弁で話していました。

甲斐の虎と呼ばれ、戦が上手だったことから、各地の大名たちから恐れられた武田信玄ですが、家臣=労働者がどうすれば働きやすい感じるのか?どうすれば働きやすい環境を作ってあげられるのか?を常に年頭に入れて何度も働き方改革を実行しました。

私の知る限り、武田信玄ほど家臣たちを気遣いつつも尊敬された武将は世界広しといえど、古代中国の帝舜か彼の他はいないのではないかと思います。

本記事では、先ほどのように家臣を大事にする武田信玄がどんな働き方改革を行ったのかをご説明します。

 

喧嘩は絶対ダメ 喧嘩両成敗法の制定

 

甲州法度之次第は、武田信玄が自身の納める甲斐の国独自の法律です。

このように戦国大名が各々自国のみで適用される法律を公布したので、これらの法律のことを広義のうえでは分国法と言います。

武田信玄が定めた甲州法度之次第にある数々の法律のうち、最も有名なのが喧嘩両成敗です。

 

「そんなのわざわざ法律にしなくてもいいじゃないか」と思った方もいらっしゃるでしょう。

しかし、当時の喧嘩は生易しいものではありません。戦国の世を治める大名たちにとって、家臣同士の喧嘩は常に頭を悩ませる問題でした。

 

戦国時代の武士たちは「戦うことがすべて」であり「敗者は勝者に従う」という極端な考えを持っており、お米の石高の計算が合わないだけで拳や刀を交える喧嘩をよく起こしました。

お酒の席では普段よりも気が大きくなってしまう者もおり、場合によっては真剣を抜いてどちらか一方が命を落とすことも珍しくありませんでした。

 

武田信玄は元来アニキ気質の強い方で、よく家臣たちの喧嘩の仲裁に入っていました。

なにかと喧嘩に居合わせる機会が多かった武田信玄は次第にこう思うようになります。

「味方同士で争うことはよくないことだし、どちらかが居辛くなったり勢いで殺害されては、優秀な人材がいくらでも欲しい乱世に不利益。それにどちらかに自分が味方してしまえば、一時丸くおさまっても後で反目し合ったり、自分に恨みの矛先が向くかもしれない…それなら喧嘩を未然に防ぐしかない!」

この考えから武田信玄は喧嘩両成敗法を制定したのです。

 

喧嘩両成敗法の意味は「喧嘩をした者はどちらが悪いのか、またその程度を問わず、両方処罰する」という法律です。

喧嘩両成敗法が制定されてからの武田家中は、力で相手をねじ伏せるのではなく、よく話合って相手を説得し合うようになったそうです。

 

元祖タイムカード制度の導入

 

戦国時代の人々は出勤・退勤の時間が基本的に自由でした。

人々は朝日が昇るとともに起床し、各自準備ができたら出勤して、自分の仕事が終わるか日が沈めば勝手に帰宅していました。

ひどい者は週に1~2度しか出勤しない武士もいました。

当時の俸給は年俸制が一般的であったため、早朝から夜遅くまで仕事をしても週に1~2度しか出勤していなくても自分の仕事がクリアできていれば毎年一年間食べてゆけるだけの俸禄が与えられていたのです。

 

さて、みなさんどうでしょう?

これでは真面目に毎日働いている武士があまりに可哀想だと思いませんか?

それでも俸禄は階級や年齢によってほとんど同じでした。

当時ではごく一般的だった俸禄のシステムなのですが、武田信玄はこのような働く時間の差が危機になるといち早く感じ取りました。

 

武田信玄はいずれ不満を爆発させた家臣が謀反を起こしたり、最低ラインに全員が前ならえをして国の成長が止まると感じたのです。

そして発案したのが、出退勤簿を元にして俸給の額を算出する制度の導入でした。

しかし、このままではただ”だらだら”と仕事をして家に帰らなければより多くの俸給がもらえるんだと勘違いする者が出てくると考えた武田信玄は出退勤簿を導入するにあたり家臣たちにこのように表明しました。

「働かないやつはいらない。俺のためによく働いて死んだのならば、お前の席を子に継がせよう」と言ったのです。

武田信玄の大胆なタイムカード制度は家臣たちの労働時間の差を埋めるとともに経費の削減につながりました。

 

定期的なボーナス制度

 

今では一般的なボーナスですが、この時代それに該当するのが戦争で活躍したものにだけ与えられる労功行賞です。

戦国時代以前から労功行賞はあったのですが、原則として戦がないときは与えられることがなく、もらい受けることができるのはほんの一握りの者たちでした。

戦で戦功を上げられない者たちからするとボーナスは夢のまた夢でした。

 

さすがといったところでしょうか?

武田信玄は労功行賞をいまだ与えられたことのない家臣たちの顔に目が留まりました。

その中には生まれつき身体が弱かったり、運動が苦手な者がいました。

たしかに彼らは戦でよい働きをしていたとは言えないが平時の事務作業や外交交渉では優秀な成績を収める家臣たちでした。

そのため、労功行賞を彼らに与えられないことを大変悔しがりました。

 

人には得手、不得手があることを十分に理解していた武田信玄は、戦だけでなく普段の仕事の成績や勤務時間の多さなどを人事評価に反映させて上位者にご褒美を与える方針を明らかにしました。

 

まとめ

 

武田信玄は自分の雇用者である家臣たちが働きやすくなるように自らが率先していろいろな制度の導入や作業量を推し量る実験などを行いました。

そして、家臣をよく見て適材適所な人事を行って、家臣たちの能力を引き出し、伸ばすように努めていました。

結果として武田信玄は父を追放して兄を隠居させて甲斐国の国主となってからこの世を去るまで多くの家臣たちから尊敬され、彼の存命中に裏切って謀反を起こそうとする家臣は一人もいませんでした。










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