《天台宗》と《真言宗》は日本における平安仏教の2大宗派です。
日本史のテストでは必ずと言っていいほど、開祖の名前を問う問題や、本山を問う問題が出題されます。
どっちがどっちの宗教を開いたのか?
また、かの有名な比叡山延暦寺はどちらの宗教の本山なのか?
この2大宗派の問題はとてもややこしく、学生時代に私も苦戦した記憶があります。
そこで今回は、《天台宗》と《真言宗》のそれぞれのポイントを整理しながら、しっかり区別して覚えられる内容をお伝えしたいと思います。
この2つの宗教のいちばん最適な覚え方としては、天台宗の開祖である『最澄(さいちょう)』と真言宗の開祖である『空海(くうかい)』の生い立ちをしっかり区別して覚えることです。
《天台宗》開祖『最澄』と《真言宗》開祖『空海』、この2人の生い立ちを知れば、天台宗と真言宗の違いについても理解できるはずです。
最澄が天台宗を開くまでの日本
平安時代は桓武天皇(かんむてんのう)の治世からはじまります。
桓武天皇のまわりでは不吉なことばかりが起こり、天皇は和気清麻呂(わけのきよまろ)の進言により、西暦794年に都を平安京へ遷都することにします。
遷都には実は上記の他に、別の目的もありました。
当時すでに奈良の寺院は巨大化し、世俗化が進むうちに僧侶が腐敗堕落してしまっていました。
天皇としてはそのような状況を見過ごすわけにはいかず、巨大化しすぎた寺院の中で腐敗堕落してしまった僧侶達をなんとかする為に打ち出された施策が平安京への遷都だったのです。
《天台宗》の開祖、最澄の誕生と修行時代
上記のような状況下で、現在の滋賀県で誕生したのが最澄です。
最澄は18歳のときに出家して東大寺で仏教を学びます。
東大寺で受戒(じゅかい)し、南都六宗(なんとろくしゅう)を修めた最澄でしたが、その教えに満足することができず、比叡山に庵を建てて引きこもってしまいます。
そしてその中で鑑真(がんじん)が日本にもたらした天台大師智顗(てんだいだいしちぎ:中国の高僧)の書物を読みふけり、願文(がんもん)と呼ばれる5つの願いを書き起こします。
それは菩薩として生きる決意を表明したものでした。
《天台宗》の開祖、最澄は遣唐使として唐へ渡り、仏教を学ぶ
最澄はひとり厳しい修行に励みました。
それは先に記した菩薩となるための修行です。
山には次第に同じ志を持つ仲間が集まり、一乗止観院(いちじょうしかんいん)を創設しました。
それが後の天台宗の総本山・比叡山延暦寺です。
一乗止観院創設から12年後、最澄の名は朝廷に伝わることなり、最澄の名声は高まりました。
西暦804年には天皇陛下から直々に遣唐使として唐へ渡り、仏教を学んでくるようにと命令されました。
このときの遣唐使船は4隻でしたが、最澄はそのうちの第2船に搭乗しました。
また、このとき第1船には当時無名の僧侶だった空海も乗船しており、天台宗と真言宗の開祖は同時期に唐留学をしていたことになります。
最澄は自分の目的を果たすとすぐに帰国した
最澄は、円・密・禅・戒といった天台宗の密教、禅、戒律をわずか8カ月でマスターして帰国しました。
しかし、病床に伏していた桓武天皇は最澄の帰国を喜んでいましたが、天皇たちが待ち望んでいたのは霊験あらたかな密教であり、最澄の関心事だった天台数学ではありませんでした。
一方最澄から遅れて帰国した空海は、最澄とは別ルートで密教を専門的に学んで来ていました。
その密教によって当時無名だった空海の名は朝廷中に広まることになるのです。
最澄は密教を学ぼうとしたが上手くいかなかった
最澄は密教を学んできた空海にへりくだって教えを請いましたが、断られます。
そしてやがて二人の関係は険悪なものとなっていきます。
最澄は密教伝授をあきらめて奈良仏教との論争の中、天台宗の正当性を主張してきました。
そして朝廷に比叡山大乗戒壇院(ひえいざんだいじょうかいだんいん)設立の許可を求めます。
しかし、その甲斐むなしく、許可を受けられないまま56年の生涯を閉じました。
最澄の死後から7日経った後、嵯峨天皇から設立の許可が下りました。
最澄の開いた天台宗からは優秀な弟子たちが輩出され、最澄の没後44年に清和天皇から伝教大師(でんぎょうだいし)という諡を下賜されました。
《真言宗》の開祖、空海の誕生と修行時代
空海は最澄よりも8歳年下の人物です。
現在の香山県にて生を受け、高い身分の家柄の出身でした。
空海の両親は大学に行って出世することを望みましたが、空海は満足できずに大学を中退して仏教に帰依します。
そのときの心境を戯曲風に著したのが空海24歳のときの著書「三教指帰(さんごうしいき)」です。
儒教、仏教、道教を比較して仏教が最も優れていることを論じています。
その後、遣唐使として唐へ留学するまでの7年間、空海の足取りは途絶えます。
この7年間は密教の典籍を読み漁り、中国語を学びながら山野に分け入って修行していたのであろうという推測がなされています。
最澄とは異なり、空海は莫大な費用を自分で用立てて最澄と同じ遣唐使船に乗り込みます。
遣唐使として唐に渡り、密教を学ぶ空海
唐に渡った空海は、長安の青竜寺にいる恵果(けいか)を訪ねました。
恵果は金剛界・胎蔵界両部(こんごうかい・たいぞうかいりょうぶ)の密教を学んだ高僧です。
その恵果は千人もいる弟子を飛び越して空海に密教の奥義を伝授したといわれます。
空海はわずか2年足らずで密教のすべてとサンスクリット語を習得し、多くの経典や曼荼羅、図像や法具などを入手して日本に帰国します。
帰国後の空海の活躍
空海は本来唐で20年学ぶことを義務付けられた留学生(るがくしょう)という身分でした。
2年での帰国はこの義務を守らなかったことになります。
それに負い目を感じていたのでしょうか、空海は太宰府に到着した後しばらく消息を絶ちます。
これは謹慎していたものとも考えられます。
しかし、朝廷は密教を求めていたので、それを専門的に学んできたという空海を特例で許し、高尾山寺に住まわせることにしました。
嵯峨天皇(さがてんのう)や貴族たちは霊験あらたかな密教を待ち望んでいたからです。
最澄が空海へ密教の教えを請うたのもこの頃になります。
空海は嵯峨天皇から東寺(とうじ)を賜り、教王護国寺(きょうおうごこくじ)と称して密教の専修道場を立ち上げました。
これが事実上の真言宗の立派です。
そして唐から持ち帰った経典や曼荼羅などをすべて収容しました。
これらは、その後の仏教美術を中心とする日本文化に大きな影響を与えました。
それだけでなく、日本仏教の各宗派も影響を受けて密教化していきます。
日本文化に革命をもたらした空海でしたが、庶民救済も忘れませんでした。
空海は庶民の子供たちの学校となった寺院の建立や故郷の満濃池(まんのういけ)の治水工事をして人々を水害から守ろうとしました。
後に空海は天皇から高野山金剛峰寺を設置して真言宗広めることを許されます。
空海の開いた真言宗からもたくさんの高僧が輩出され、空海の死から約100年後、醍醐天皇から弘法大師(こうぼうだいし)の諡を下賜されました。
まとめ
最澄は天台数学を中国で専攻して学び、比叡山延暦寺に天台宗を開きました。
一方、空海は真言(サンスクリット語)と密教を専攻して学び、高野山金剛峯寺に真言宗を開きました。
よって、天台宗と真言宗は下記の表のようにまとめることができます。
天台宗 | 真言宗 | |
開祖 | 最澄 | 空海 |
総本山 | 比叡山延暦寺 | 高野山金剛峯寺 |
根幹の教え | 天台数学 | 真言、密教 |
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