大人気テレビドラマ「暴れん坊将軍」のモデルとなっている徳川吉宗(とくがわよしむね)。
徳川吉宗は事実暴れん坊将軍と呼ばれていながら、自らそろばんをはじき、当時財政難だった江戸幕府の乱れた政治を享保の改革によって見事立て直しました。
本記事では徳川吉宗の行った享保の改革のその具体的な政策について説明します。
徳川吉宗による享保の改革とは?
徳川吉宗によって行われた享保の改革は、徳川吉宗が将軍職を引き継いだ享保元年(西暦1716年)から開始された当時前例のない斬新な政治改革です。
享保の改革の内容については人事の改革、財政の改革、行政の改革、司法の改革、治水工事や新田開発などの公共事業というように多岐にわたります。
このように徳川吉宗による享保の改革はありとあらゆるものを抜本的に新しくした改革でした。
享保の改革が行われた理由
徳川吉宗(とくがわよしむね)が将軍職に就任した当初の江戸幕府と日本の政治状況はボロボロな状態でした。
徳川吉宗の先代にあたる7代将軍徳川家継(とくがわいえつぐ)はわずか4歳で江戸幕府将軍に就任し、7歳という若さでこの世を去った短命な将軍です。
もちろん徳川家継は幼少だったため、肩書だけの将軍で実質政権を手中に収めていたのは江戸幕府旗本の有力大名やその家臣、6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)の正妻だった天英院と自身の母親月光院(げっこういん)などでした。
このように政治の右も左もわかない将軍が家臣や母親、祖母の言うことを「はいはい」と聞いているのをよいことに賄賂を贈って人事を操作しようとする者や、税金の着服をするような者が多くいました。
さらに大奥の権勢が強すぎて、諸藩よりも発言力を持ってしまうような状況に陥っていました。
実際、徳川吉宗も本来ならば江戸幕府将軍なんて夢のまた夢のような出自のお殿様で、天英院のバックアップを受けて将軍に就任したという過去があります。
また、当時は農民が借金をするために土地を担保に入れ、返済が滞るとその土地を金融業者に取り上げられてしまったり、大奥が幕府の年間予算の1/4を散財、諸藩の大名が借金地獄に苦しむという経済的にも悪い状況にありました。
このような最悪の幕政の中、徳川吉宗は8代将軍になりました。
そんな徳川吉宗が将軍に就任する際に掲げたマニュフェストが「乱れきった幕政の根本的改革」です。この乱れきった幕政を正しくする為に行ったのが享保の改革だったのです。
享保の改革の具体的な政策
次からは享保の改革で行われた具体的な政策や政令を簡単にまとめたものをご紹介します。
【人事の改革】
<人材の解雇と登用>
江戸幕府7代将軍徳川家継が将軍に就任していた期間に正徳の治という改革を主導した新井白石(あらいはくせき)と間部詮房(まなべあきふさ)をリストラし、紀州藩(徳川吉宗の出身)の家臣を幕臣に多く登用しました。
徳川本家ではない徳川吉宗にとって自分の味方を幕臣に取り込むことは今後の政治を有利にする為にとても重要なことでした。
この人事によって徳川吉宗は自分の指導力を確立することになります。
<御庭番の設置>
将軍から直接密命を受けて諜報活動を行う隠密集団である御庭番を設置しました。
<町代廃止と町名主の人員削減>
町ごとに置かれた代官を廃止し、名主を減らして税金から支出する人員コストを削減しました。
<火事対策>
喧嘩と火事は江戸の名物といわれるほど、江戸では火事が多発していました。
火事の対策として防火建築の奨励や火除地の設定、町火消し組合(消防団)を創設させました。
【行政の改革】
<目安箱の設置>
目安箱は当時の庶民の意見を収集する為に設置した投書箱です。
日本全国の小中学校ではごく当たり前のように行われている目安箱の設置を始めて発案したのは徳川吉宗でした。
これにより庶民の要望や不満の声を直に聞くことができました。
<上米の制>
全国各地の諸藩に対して1万石につき100石を一時的に献上させた政策です。
諸藩はその見返りとして江戸の滞在期間が1年から半年に短縮されました。
<足高の制>
幕府の各役職ごとに支払う給与を定め、その役職に任命されている間は元の俸禄に定められた給与が足されて支払うものです。
いわゆる役職手当のようなものと考えてよいでしょう。
<飢饉対策>
享保の飢饉の惨劇を繰り返さないよう、徳川吉宗はお米に代わる主食としてサツマイモの栽培を奨励し、自ら栽培研究を行いました。
また、桃や桜の植林、薬草の栽培、なたね油や高麗人参などの商品作物の栽培を奨励しました。
<風俗の取り締まり>
博打や心中、私娼(公式な許可を得ていない遊郭)の取り締まりとそれに関する出版物の統制を行いました。
【財政の改革】
<倹約令>
庶民に対して倹約することを強制させる政令です。
<米価と物価の安定>
お米だけに限らず、物の生産量が不作や不況で減ってしまうと自ずと価格は高騰します。
特に必ず消費するお米においては値段が高騰するのは誰にとってもよいことではありません。
徳川吉宗は上米の制や増税によって得た余剰米を常に担保しておき、生産量が下がったときには国庫から支出できるような体制を整えました。
<公共事業>
治水工事によって洪水による被害への対策を行ったり、新田開発を行って農作物の生産率向上を図りました。
<貨幣の鋳造>
享保小判の鋳造を行いました。
【司法改革】
<公事方御定書>
犯罪や裁判に関することを中心に編纂された幕府の基本法典を作成しました。
<漢訳洋書の輸入の制限緩和>
緩和が行われる以前は洋書の輸入は厳しく制限されていました。
徳川吉宗は「キリスト教に関係のない漢訳洋書であれば輸入してもよい」とその制限を大幅に緩和しました。
<相対済令>
金銭の貸し借りに関する訴訟を認めず、当事者間で話し合いを行って解決させることを命じた政令です。
当時金銭の貸し借りについての訴訟が氾濫し、奉行所のキャパシティでは対応しきることができなかったのが要因となっています。
まとめ
徳川吉宗の将軍職在位期間は約30年間です。
その間に人事、財政、行政、司法を根本的に改革した享保の改革を行って、幕府の財政を立て直し、新しい法律、政令の発布して乱れ切った世の中をよりよく変えていきました。
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