豊臣秀吉は元フリーター?豊臣秀吉が織田信長に仕えるまでの職業とは







足軽の身分から太閤という身分にまでのし上がった豊臣秀吉は、織田信長に仕えるまで農家、野菜売り、油売り、針売りなどさまざまな職業を転々としたフリーターでした。

そして時には屋根の下で寝食をすることもできず、河原でホームレス生活を余儀なくされたこともありました。

本記事では、豊臣秀吉が織田信長に仕えるまでに就いていた職業のことについて説明します。

 

「豊臣秀吉」前職はフリーター

豊臣秀吉は足軽の身分からたった一代で太閤という身分にまでのし上がった偉人です。

豊臣秀吉という偉人は立身出世の代名詞で後世の人々からは太閤記に見られるようにヒーローとして見られています。

 

そんな彼ですが、織田信長に仕える以前は農家、野菜売り、油売り、針売りなどの職業を転々とするフリーターでした。

さらに彼は自由気ままに仕事を辞めるものですから、時にはお金がなく屋根の下で寝食することにも事欠き、河原でホームレス生活をすることさえあったそうです。

 

最初は家業の手伝いから

 

豊臣秀吉の父親は木下弥右衛門という平時は農家として田畑を耕し、戦時中のみ戦争に参加して武士の身分を与えられる足軽でした。

豊臣秀吉は姉、弟、妹の4人兄弟で長男という立場上、父親の田畑を継承して農家を引き継ぐべき立場でした。

 

この時代、子供は労働力となったので、秀吉も姉や弟と一緒に農業の手伝いをしていました。しかし、豊臣秀吉は野良仕事が嫌いで仕事をサボっていたそうです。

木登りが得意になったのも仕事をサボったときに姉や母親から逃げるべく、実家の側に生えていた大きな木に登って極めたからであると伝えられています。

 

まだ10代前半であったときから豊臣秀吉は実家の身分に満足しておらず、「どうしたら生活が豊かになれるか?」、「どのような仕事が儲けられるのか?」ということを常に考えていたようです。

 

野菜売りに転身

 

「そうだ!!家で作った野菜を町で売り歩こう」

10代も半ばになった頃、豊臣秀吉はこのようなアイディアを思いつきました。

 

江戸時代以前は八百屋さんというお店は少なく、野菜を購入するには定期的に開催される市場や行商人から買うことがほとんどでした。

市場は農家や漁師が各自で収穫したものを直接売るので安いのですが、定期的にしか開催されないという時間的な問題がありました。

行商人や問屋から購入する場合は市場で売られる相場の値段に問屋や行商人の儲けが上乗せされるので、必然的に高くなります。

これに目をつけた秀吉は親兄弟に田畑の仕事を任せ、自身は足が速いことを理由に町で野菜を売り歩く野菜売りに転身しました。

油売りに転身

実家で採れた野菜を売って生計を立てていた秀吉でしたが、野菜売りの仕事はうまくいきませんでした。

そんなとき、美濃で油売りをしていた斎藤道三が国主を追放して城を乗っ取るという大事件が起きました。

 

秀吉もこれに習おうとして野菜売りから油売りに転身をしました。

ここでいう油売りが売っていた油とは椿油のことを指します。

椿油は女性や力士が髪を整えるために使っていた整髪料で、それなりに需要がありました。

さらに椿の種を絞って抽出する椿油は単価が高かったのです。

 

油売りの商売は取っ手のついた桶と柄杓を持ち、一軒一軒に飛び込み営業をして買い手がつけば買い手の用意した器に注文された量の椿油を流し入れます。

椿油はトロトロとした粘度の高い液体なので、世間話をしながら器に油を入れていたそうです。

その様子が仕事をサボったり、寄り道をして時間を無駄に消費するときに使われる「油を売る」という語源になりました。

 

針売りに転身

油売りでもあまりよい成功を収めることができなかった秀吉は次に針売りという仕事に目をつけました。

針は細い金属に穴をあけるため、作るにはとても難しいが高く売れるもののひとつでした。

秀吉は健脚を活かして街だけでなく、地方にまで針を売り歩きました。

 

行商人ではダメ…安定した仕事に

 

農家、野菜売り、油売り、針売りとなんでも器用にこなしてきた秀吉でしたが、行商人は売れるときと売れないときの波が激しく、このままでは生活をしていくだけで大きな成功や出世を夢見ることさえ難しいと考えました。

 

次に秀吉が考えた職業が武家の奉公人という職業です。

奉公人とは掃除や炊事、馬の世話などの雑用をこなす使用人のことで、定期的に安定した収入を得ることができました。

奉公人となるには紹介状が必要で、仕える武家の規模により俸禄が異なります。

秀吉は叔父の紹介を受けて最初は尾張の松永氏の奉公人として働き始めます。

 

奉公人として働き始めて数年後、帰省中に秀吉は母親からよい情報を入手します。

竹馬の友ともいえる親友が織田家の奉公人の長に昇格し、なおかつ織田家は庶民出身でも見込みがあれば採用してくれるという情報でした。

秀吉は松永氏に直談判して紹介状を書いてもらい、親友のつてで帰蝶こと濃姫(信長の妻)の使用人として働くことが決定しました。

 

そしてこれが豊臣秀吉のサクセスロードの入り口となったのです。

 

まとめ

 

織田家に仕える以前の豊臣秀吉が経験した職業について説明しました。

経験した職業とその仕事をするにあたっての動機を顧みると秀吉はその時期に儲けられそうな仕事に注目し、果敢に挑戦し続けていたことがわかります。

 

あまり職業を転々とするのはよろしいことではないと昔から言われていますが、秀吉は世論よりもリアリティーを追求する人物であったことがわかります。

出世するために挑戦し続けたことが、彼を足軽という身分から太閤へ押し上げた原動力となったと考えられます。

 










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