死後スーパースターとして国民から愛された豊臣秀吉は、太閤記という物語の主人公となりました。
太閤記が書かれた当時の江戸時代は町人や商人が活気に満ちており、「武士に負けないぞ」という心意気から農民から太閤まで上りつめた豊臣秀吉の偉業を等身大よりも大きく誇張するためガセネタとなる記述を加え、盛りに盛ったガセネタが全国各地に広がりました。
本記事では、豊臣秀吉のガセネタについて、3つのエピソードを取り上げたいと思います。
豊臣秀吉のエピソードにはガセネタが紛れている
豊臣秀吉は農民の出身でありながら戦国のトップである太閤の座まで駆け上がったスーパースターとして後世の人々から人気を博しました。
しかし、豊臣秀吉がスーパースターとして担ぎ上げられたのは彼の死後にある江戸時代のことで、存命中はそこまで騒ぎたてられるほどではなく、むしろ下賎な輩として陰口をたたかれるほうが多かったようです。
されどスーパースターに祭り上げられた豊臣秀吉にはいつしか根拠のないガセネタ(嘘)や偉業や偉大さを誇張するために盛られたガセネタ(嘘)などで、等身大よりも大きく描かれるようになります。
今では世界的に有名な三国志でさえ、「7割の史実と3割の虚構(ガセネタ)」で描かれているというのですから、豊臣秀吉に関しても同様にガセネタ(嘘)で飾られたエピソードが数多くあります。
猿というあだ名を織田信長がつけたというのはガセネタ(嘘)
豊臣秀吉は主君の織田信長に「猿」というあだ名で呼ばれていたことで有名です。
しかし、この情報は人々が口から口へと伝えた伝承であり、史実や史料としては織田信長が豊臣秀吉のことを「猿」と呼んでいた記録は一切見つかっていません。
しかし、あだ名が「猿」であったことは真実だったようですが、あだ名をつけたのは彼の母親や兄弟であったそうです。
豊臣秀吉が「猿」と呼ばれた理由は単純明快。
申年に誕生したからです。
母親や兄弟などの家族が「猿」と呼んでいたので、自然に友人たちも「猿」と呼ぶようになり、親友のコネクションを使って織田家に仕官した後も「猿」が彼のあだ名になりました。
そのため、織田信長が豊臣秀吉に「猿」というあだ名をつけたというのは完全なガセネタ(嘘)です。
これについて、後世の文学者や歴史研究家は次のように考察を述べています。
としています。
北野大茶会繁盛はガセネタ(嘘)
豊臣秀吉が京都の北野天満宮で主催した有名なイベントに北野大茶会というものがあります。
このイベントでは庶民から大名までお茶に興味がある者なら、身分の分け隔てなく誰でも太閤豊臣秀吉とお茶の席をともにできるという画期的なコンセプトのもとで催されたものです。
北野大茶会のメインは豊臣秀吉の立てるお茶。
しかし、参加者全員を豊臣秀吉が相手にするのは無理があったので、当日はその場で抽選が行われ、1等が豊臣秀吉、2等が千利休、3等が津田宗及、4等が今井宗久へと振り分けられました。
千利休をはじめとする2等以下の人物はいずれも当時最高峰の茶人と呼ばれた人物です。
豊臣秀吉は神社の一角に40点もの茶器(それぞれが一国一城よりも価値がある名品)を自慢気に並べて、千利休らは軽堂と呼ばれるところに茶席を設けました。
そして教科書では「大勢の人々が押し寄せて大成功をおさめた」となっていますが、これは完全なガセネタであることが究明されました。
当初の開催期間は10間だったのに、わずか1日でこの茶会は終わってしまいました。
その理由は、佐々成政のいる肥後で反乱があったから、秀吉が大勢をさばいて面倒くさくなったからなどいくつか言われてきたのですが、これもガセネタで真実は「豊臣秀吉のメンツ」です。
真実はこれだけ豪華な演出をしたのにも関わらず、初日に「豊臣秀吉とお茶が飲みたい」と抽選くじを引いたのがたったの803人だけだったのです。
ジャニーズやAKB48をはじめとするアイドルは何万人もの規模の観客を動員するコンサートを開いています。
当時10万人単位で兵士を動かす大物が気さくに誰でも会うという場にたったの803人しか集まらなかったのは、予想外の大誤算だったのです。
また、自分以外は堺の茶人ばかりを主役にしたためプライドの高い京人たちのウケが悪かったのという見方もできるのですが、いずれにせよプライドをずたずたに引き裂かれた豊臣秀吉はふてくされて急遽イベントの中止を決行しました。
実際2日目以降に参加するつもりで九州から招かれていた商人たちへは、豊臣秀吉が直々にイベントを中止したことを頭を下げた詫び、後日改めて穴埋めのための茶会を催すほどでした。
そのため北野大茶会が大繁盛したというのは完全なガセネタ(嘘)です。
豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子というのはガセネタ
大の女好きとして知られる豊臣秀吉の不幸は、その甲斐もなく一切子だからに恵まれなったことです。
片っ端からいろいろな女性に手を出し、老齢となっても子作りに励んだのに「豊臣秀吉を父とする子」を生んだのは、正室の寧々でも浮気しまくった不特定多数の女性でもなく、側室の淀君だた一人です。
現代の医療技術では男性側に生殖能力に異常がある場合は、体外受精をすることが一般的となっています。
専門家によれば「豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子である可能性は限りなくゼロ」としています。
かつて日本ではこうしたケースは珍しくなく、その際には養子を迎えたり、イベントで子宝を分け合うようなことしていました。
後者の場合は端的に言ってしまうと旦那公認で、妻が他の男性と性行為に及ぶことを意味しています。
「家の維持」や「世継ぎを生むことこそが存在理由」だった当時の女性たちにとっては自分が生き残る手段のひとつだったのです。
しかもそのような場は神様仏様を祀るお祭りの場で催されました。
つまり社会や神様仏様の公認のもと、不特定多数の男性と性交渉をすることをで受精する可能性を高める目的で行われたのです。
また、父親が特定の誰かとわかってしまうと後々復讐劇や子供を認知してもらうことがなくなるので、それをさけるために不特定多数の異性と性交渉を行うのが一般的でした。
豊臣秀吉の世継ぎを生むことを使命とした淀君はこのようなイベントをなんと2度も開催しました。
1度目は豊臣秀吉の公認のもと、たくさんお男性と淀君が大坂城にあるお堂の中で謎の祈祷をおこないました。
おそらく、これが第1子の受胎の場であったと考えられるのですが、残念ながらこの子は産まれてからすぐに早世してしまいます。
豊臣秀吉はこの時に実子を諦めて、養子をもらうことを覚悟していたらしいのですが豊臣秀吉が朝鮮出兵で九州へ遠征している最中に淀君は勝手に例のごとく祈祷を行い、秀頼を懐妊したのです。
これにはさすがに豊臣秀吉も激昂して「妊娠おめでとう。その子はお前の乳でそだてなさい。」という書状を送っています。
当時地位の高い女性は子育てをすることは一切なく、他人に委ねていました。
そのため、自分の母乳で子育てをすることは身分の低い人間のすること。
つまり淀君に辛いお仕置きをするために発したことでした。そのため、実際一人目を生んだときは、母乳で育てるどころか手元から子供をとられてしまっていたので、直接寝食を共にすることもありませんでした。
そのため、太閤記にあるように秀頼の懐妊を知った豊臣秀吉が茶々(淀君)を抱きかかえて喜んだという記述は完全なガセネタ(嘘)です。
まとめ
- 猿というあだ名を織田信長がつけたというのはガセネタ(嘘)
- 北野大茶会繁盛はガセネタ(嘘)
- 豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子というのはガセネタ(嘘)
上記のとおり、スーパースター豊臣秀吉に関する3つのガセネタ(嘘)を解説しました。
記事の冒頭でも言いましたが、人は尊敬する人の偉大さを示すために事実にガセネタを盛ったり、理想の人に近づける目的でガセネタを付加することが珍しくありません。
このような記事を書いた私も真実を突き詰めようとしなければ、本記事にあげたガセネタを完全に信用してしまったことでしょう。
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