農民からの下剋上大名!豊臣秀吉が文字を教わったのは奥様だった?







織田信長の死後、太閤として君臨し天下人となった豊臣秀吉はもともと農民の出身で、読み書きをまったく習ったことがありませんでした。

しかし、武士にとって字を書けないことは無能であることを意味します。

その夫の危機を助けたのは14歳で嫁いでから生涯添い遂げる正妻の寧々でした。

 

20代前半まで字の読み書きができなかった豊臣秀吉

織田信長の死後、太閤として日本の頂点に君臨した豊臣秀吉はもともと農民の出身で、読み書きをまったく習ってきませんでした。

武士たちは戦時には武装して戦争に参加しますが、平時はお役所のお仕事をしていました。

そのため、武士にとって文字を読んだり書いたりすることは必須のスキル。

 

最初は雑用や馬子と呼ばれる馬を引く従者の仕事をしていた木下藤吉郎こと豊臣秀吉。

主君織田信長の草履を温めて差し出した一件からお気に入りの家臣となり、一歩また一歩とテンポよく出世街道の道を歩き始めたのですが、当時20代前半だった彼にとって第一の試練が訪れます。

それは、年貢や戦費の計算や維持・管理する勘定と呼ばれる部署に配属されたことです。

 

勘定では帳簿の記録や発給文書の作成などを行います。

字を読むことも書くこともできない木下藤吉郎は自分の能力以上の仕事をしなければならないプレッシャーと主君の命令に背くことのできない恐怖感の間で揺れます。

どうしたものか…?

悩んだ末に思いついたのは、自身の妻である寧々に文字を習うということでした。

 

豊臣秀吉に字を教えた妻、寧々とは?

まずは豊臣秀吉の正妻である寧々という女性について簡単にご説明したいと思います。

寧々は織田家の重臣だった杉原定利、朝日殿の次女として生まれ、後に浅野長勝の養女となります。

養父となった浅野長勝も先祖代々織田家に仕える古参の家臣でした。

つまり、寧々は由緒正しい武家の娘で、農民出身の豊臣秀吉にとっては高嶺の花という言葉が似合う女性でした。

身分に大差がある二人でしたが、お互いに引かれあい、織田信長の猛プッシュの甲斐あってめでたくゴールインしました。

時に寧々14歳。豊臣秀吉24歳。10歳差もある年の差婚でした。

 

寧々は豊臣秀吉に文字を教えた

 

話は本題に戻って、木下藤吉郎は恥をしのんで字の指南を寧々に頼みました。

寧々はとても協力的な妻で、20を過ぎても字がわからなかった木下藤吉郎を決して笑うことなく一生懸命指導しました。

嫁入り道具として硯と筆を持ってきていた寧々でしたが、当時髪は高価なものであったため、最初はいろりの灰を火箸でなぞって書いてみせました。

寧々のカリキュラムとしては漢数字をまず教えて、次に藤吉郎の名前や関係者の名前などを教えていきました。

藤吉郎も覚えはよかったようで、次々と字の読み方や書き方を覚えていきました。

 

豊臣秀吉の文字は汚かった?

 

豊臣秀吉は文字の成り立ちやちゃんとした書き順、文字のバランスのとり方を覚えず、文字を形として覚えたため、秀吉の書く文字は下手だったそうです。

おそらく、寧々も読むことができる字が書ければそれでよいと判断したのでしょう。

「もっとうまく書きなさい」といった注意をすることもなければ、どのようにして書けば綺麗に見えるのかを教えることはしませんでした。

 

豊臣秀吉こと木下藤吉郎は文字を覚えて大活躍!

勘定の部署に異動した当初の藤吉郎は文字を書くことができないので、十分な仕事ができませんでした。

しかし、藤吉郎の持ち前の明るさと憎めない性格が功を奏して、仕事を手伝ってくれていたそうです。

妻のおかげでようやく文字を覚えた藤吉郎はもともとお金の計算や数字に強かったので、その力を存分に発揮してメキメキと頭角を表すようになります。

 

藤吉郎の計算スピードは並みの人の倍以上だったそうで、スラスラと帳簿を書き上げしかもミスをすることもほとんどなかったそうです。

当時はコンピュータや計算機などがなかったので、ものを数えるのも検算をするのもすべて人力で行っていました。

そのため、ひとつでも間違いを起こせば大変な時間と労力をかけてどこで計算がくるってしまったのかを探し、またそこから計算をやり直すということをしていました。

藤吉郎のおかげで勘定の部署の業績は右肩上がりに上昇し、藤吉郎個人としても大きな業績を収めました。

 

秀吉は字が下手なことを自覚して恥じていた

 

豊臣秀吉が徳川家康や前田利家らに送っていた手紙には、秀吉本人が自分の字が下手であることを自覚していること。

またそれを恥じていることをうかがう文章を見ることができます。

いま私たちが戦国武将たちの手紙を読んでみても達筆すぎて大半を識別することができないのにも関わらず、その中でも秀吉はピカイチで字が下手だったそうです。

「農民出身だから字が下手でもしかたない」ということで、秀吉の字をバカにするような器の小さい同僚や部下、上司はおらず。

むしろ柴田勝家らは「一生懸命に覚えたんだから、卑下するな」、「読めればどんな字でもよいだろう」という言葉を送っています。

 

豊臣秀吉は筆まめな人だったらしく、史料として残されている文書も数多くあります。

その手紙の結びのには「駄筆にて失礼仕る」、「駄文にお付き合いいただき感謝します」というように読み手のことを気遣うような言葉をいつも添えていました。

 

まとめ

 

木下藤吉郎こと豊臣秀吉がどのようにして字を覚え、立派な武士となったのかを書きました。

木下藤吉郎は戦だけでなく、平時の仕事でも大活躍をした人物でありその原動力となったのは妻の寧々による文字の指南であったと言えます。










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