戦国時代はたとえ下賎の出身、ブサメンでも槍ひとつと己の腕だけで大大名に成り上がれるというロマンがあります。
では、筋骨隆々な力自慢の戦が強いゴツイ大男しか大名はいなかったのかというとそれは違います。
そんな時代にもイケメンな大名が存在していました。
そんなイケメン大名の代表格といえるのが、若干10歳で宇喜多家当主につき、豊臣政権下で若干20代にして五大老に抜擢された宇喜多秀家(うきたひでいえ)でしょう。
宇喜多秀家はイケメンだったと有名ですので、イケメン大名が10歳で当主、20代で五大老に成り上がったと言われると顔だけで成り上がったのか?と思われるかもしれませんが、顔だけで渡って行けるほど戦国の世は甘くありませんでした。
本記事ではそんなイケメン大名『宇喜多秀家(うきたひでいえ)』についてご紹介します。
宇喜多秀家の父はイケメンブラック武将
イケメン大名の代表格である宇喜多秀家は、岡山県東部の戦国武将だったの父の宇喜多直家の長男として誕生します。
直家は毛利方から織田家に寝返った人物で、暗殺や謀略の達人でした。
引き受ける仕事の内容が暗殺と謀略が主だったのでブラックなイメージを拭い去ることのできないのですが、単純に力と力がぶつかる戦においては、雄叫びをあげながらズバ抜けた武勇を発揮する猛将として活躍しました。
イケメン大名の宇喜多秀家の父らしく、直家の生前をかたどった直家の木造は精悍な顔立ちをしていて父親もイケメンであったことがわかります。
強いだけでなく、暗殺や謀略など繊細な任務でも活躍した宇喜多直家の唯一の悩みは、後継ぎがなかなかできなかったことです。
宇喜多秀家が誕生したとき、直家は41歳でした。
今ではよくあることですが、戦国時代の世の中はたいてい15~20歳までの間には子供をもうけることが当たり前だったので、それを考えるとかなり遅めにできた子供であることがわかります。
イケメンだった直家に他の女性たちやその親から声がかからなかったわけではなく、祖父の敵討ちや戦争に忙しかったこと。
正妻の父親を殺害して浦上家臣団の中心人物となったので夫婦仲が険悪であったことなどが考えられています。
イケメン宇喜多秀家の母はもちろん美女だった
イケメン直家は正妻に離縁状を叩きつけ、継室に迎えたのが後にイケメン宇喜多秀家を生む円融院です。
このとき宇喜多直家は38歳、円融院は15歳という若さでした。
そしてこの結婚から3年後、ようやく待望の後継ぎが誕生することになります。
宇喜多秀家の母の円融院は類稀なる美貌の持主であったらしく、頭を丸め尼となっても美女のひとりに数えられるほどの女性でした。
イケメンな父と美人な母から生まれた宇喜多秀家がイケメンでないはずがありません。
イケメンブラック武将、宇喜多直家の死
宇喜多家の貴公子だった宇喜多秀家の最初の試練ともいえるのがイケメンブラック武将の父親が51歳という若さでこの世を去ったことです。
宇喜多秀家が10歳の頃、イケメンブラック武将だった父は病床に伏せるようになります。
病人となってしまった直家は生前の猛将っぷりが嘘のようにうつろな目で天井を見上げ、弱々しい人へと変わってしまいました。
そして常に幼い我が子のことばかりを考え続け、臨終の際には死に目に会いに来た豊臣秀吉に涙をハラハラとこぼしながら「羽柴殿、なにとぞなにとぞ秀家をお頼み申す」と渾身の力を振り絞って嘆願しました。
豊臣秀吉は宇喜多直家の手をとり「わかった、お前の息子はわしに任せろっ」と答えると直家は感謝の言葉を述べて安堵の表情を浮かべたまま深い眠りにつきました。
享年51歳。猛将宇喜多直家の弱々しく儚い臨終でした。
イケメンの母は汚れ役を買って御家と息子を守った
イケメンブラック武将だった直家が死去したとき、宇喜多秀家の母円融院はまだ20代後半でした。
まだまだ妖艶な色香を放つ女性なのに未亡人となってしまったのはかなり惜しいことです。
それに目をつけたのが、女好きで有名な豊臣秀吉でした。
そしてまだ男女のことがよくわかっていない宇喜多秀家にこのように持ち掛けるのです。「お前のお母さん綺麗だな、ちょっと会わせてくれないか?」
宇喜多秀家はなんの疑いもなくこれに応じると、今度は円融院に対してこのように脅すのです。
「直家亡きあと、お前の息子は幼さすぎるからわしが守ってやらねばならないなぁ~。さてどのような見返りを宇喜多はくれるのだ?」。
これは円融院から「なんでもやります」という言葉を引き出したいが故のセリフでした。
直家亡きあと、幼い秀家が周りの大名たちに潰されることも十分に考えられました。
さらに直家が病床に伏してからというもの、いままで戦場で得てきた多くの財産は減る一方だったのです。
女の身で何ができるのか?真剣に悩み続けた結果円融院の出した結論は豊臣秀吉の夜の相手を務めることでした。
これは事前に宇喜多家中の家臣たちにも伝えられ、家臣たちは「自分たちが粉骨砕身の働きをするのでやめてください」と反対するのですが、円融院はその反対を押し切って豊臣秀吉のもとへ行くのです。
これにより宇喜多家臣団は先代の妻に汚れ役を押し付けてしまったことによる負い目と不運に見舞われた幼い主を我が子のように思う父性からよりいっそう鉄の団結心でつながり「我らで宇喜多家を盛り上げよう」と奮戦するのです。
イケメン少年武将による御家再興
このように御家最大の危機を迎えながらも母を犠牲にして最強の味方豊臣秀吉と鉄の団結心でつながる家臣団を得た宇喜多秀家は若干11歳という若さで御家再興のチャンスに漕ぎつけます。
11歳といえば小学校5年生くらいの年ごろです。
みなさんも自分たちが11歳だったときのことを思い出してみてください。
たとえば私が11歳だったころはゲームやサッカーをすることだけがすべてのような生活を送っていました。
女性であれば恋とかオシャレに目覚めて「ジャニーズのだれだれがかっこいい」や「この服かわいい」などとキャピキャピしているような年代です。
イケメン少年武将の宇喜多秀家は11歳で1万人の手勢を引き連れ、豊臣秀吉が織田信長から命じられた毛利攻めに参戦するのです。
そしてこの戦いで大いに手柄を立て、その功績で備前・美作・備中の半分を所領する総計50万石の大大名となりました。
イケメン武将の結婚も出世に大いに役立つ
みんなに可愛がられて育った宇喜多秀家は幼少期から温厚な性格でしたが、それと同時に利発さも兼ねそろえていました。
いざ戦という場になれば巧みな用兵を繰り返して敵を圧倒する、性格もイケメンなら戦闘スタイルもイケメンだったのです。
そのため、豊臣秀吉には大変気に入られて秀吉の養女となる豪姫を嫁に娶ります。
豪姫は秀吉の娘ということになっていますが、実の父は加賀80万石を所領する前田利家です。
この結婚が後々イケメン大名にとってよい方向へ転がります。
20代の青年へ成長した宇喜多秀家は世の女性たちが憧れるイケメンとしてその名を轟かせるようになります。
そのイケメンと結婚できた豪姫はイケメン武将である宇喜多秀家のことが好きで好きでたまらないといった様子でした。
豊臣秀吉が太閤となった後は外様の大名たちを束ね、監視する役目を担う大名として5人を選抜します。
それが徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家でした。
さらに抜かりない豊臣秀吉はこの五大老の中で徳川家康を最も不安因子であると見込んでいました。
それに対抗するためには自分の右腕となった前田利家と5大老のうちの誰かが手を取り合わなければならない。
上杉景勝は経済力がないのであまり無理ができないし、毛利輝元なんて攻められたことを恨んでいるかも知れないので論外。
そこにもともと姻戚関係にある前田利家と宇喜多秀家に目をかけることによって徳川家康を牽制、威圧することに成功するのです。
まとめ
イケメン大名の宇喜多秀家が武器としたのは顔だけではありませんでした。
美女といわれた母の犠牲。鉄の団結心で結束する家臣団、豊臣秀吉という最強の味方の存在。
そして嫁の実の父である前田利家も味方につけて出世の活路を見出していったのです。
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