女性が社会進出を始めた時代『大正時代』その時代背景と女性が就いた職業







大正時代になるとそれまでの『女性は専業主婦が当たり前』という時代から『女性が社会に進出して仕事をするのが普通』という時代になりました。

 

しかし大正時代はまだまだ女性の地位は低く、選挙権すら与えられていなかったこの頃、専業主婦とは異なり社会に出て仕事をしている女性のことは特別視されており、『職業婦人』『モダンガール』と呼ばれていました。

 

本記事では、大正時代に女性が社会進出を始めた背景と、職業婦人・モダンガールが就いた職業はどのようなものがあったのかをご紹介します。

 

大正時代からの女性の社会進出

侍の世からあの手この手で西洋化をはかり、日清戦争と日露戦争で列強国のロシア(露)、清(中国)に勝利した日本は大正時代に突入しました。

 

大正時代になると与謝野晶子(よさのあきこ)平塚雷鳥(ひらつからいてふ)などの女流作家が登場するとともに平塚雷鳥が婦人会を結成して女性の人権回復を訴える『婦人解放運動』を先導します。

当時はまだまだ女性の地位は低く、国会議員を選出するための選挙権すら与えられていませんでした。

 

この頃は「女性は学校を出たら結婚して、家事と子育てに専念するべき」という思想がまだ社会に根強く残っており、女性が社会に出て仕事をすることはとても難しいのが現実でした。

厳密に言うと手に職をつけていた女性は江戸時代の中期ごろから現れるのですが、届け出る書類の名義などには夫や父親の名前が使われており、あくまで夫や父親のサポートをするという名目でした。

要するに「八百屋の娘が家業の八百屋を手伝っている」場合の仕事はOKで「魚屋の娘が印刷会社に就職する」という場合はNGだったわけです。

 

しかし、明治時代に津田梅子(つだうめこ)という女性が初めて海外留学を果たし、シーボルト事件で有名なシーボルトの娘が江戸を代表する医師となった前例もあり、大正時代には「実力があれば女性でもいいのでは?」という意見もちらほらと聞こえてくるようになります。

それに加えて平塚雷鳥が婦人解放運動を先導し、「青踏」という雑誌でコラムを連載したので婦人解放運動はたちまち全国的に広がっていきました。

 

過去には女性による社会進出を願っていた者もいた

 

日本は長い間女性の社会進出を拒み続けた国です。

それは中国の儒教の思想男尊女卑(だんそんじょひ)の思想が要因となっています。

ところが、改めて歴史を振り返ってみると女性が社会に進出することのできない世の中を悲しみ、歯がゆい思いをしていた人々がいたことも事実です。

 

例えば藤原為時(ふじわらのためとき)

藤原為時は源氏物語の作者である紫式部(むらさきしきぶ)の実父であり、一条天皇(いちじょうてんのう)に漢学を教えた学者です。

紫式部の兄に藤原為時が漢文を教えていたところ、隣でそれを見ていた紫式部の方が先にそれを覚えてしまったため、「この子が男の子だったらよかったのに」とその才能を惜しんだと言います。

 

事実上の女性の社会進出 職業婦人・モダンガールの登場

 

女性の社会進出を願う家族の希望や平塚雷鳥による婦人解放運動、そして日清戦争、日露戦争による多くの犠牲、企業の人手不足などさまざまな要因が重なって女性の労働力が必要な社会へと移り変わりました。

 

特に紡績業(ぼうせきぎょう:繊維から糸を紡ぐ産業)製糸業(せいしぎょう:蚕(カイコ)から絹織物の原材料となる生糸を生産する産業)は日本が世界に輸出して大儲けしていた生糸や織物を作るためには欠かせない仕事で、後に文化遺産へ登録される富岡製糸工場では多くの女性の労働力を必要としました。

 

 

また、バスガール電話交換手産婆婦人科医など女性が就くことが望ましい職業も登場したことで、職業婦人やモダンガールは全国的に増加しました。

 

女性の人気が高かった職業

それでは次から職業婦人やモダンガールと呼ばれた女性たちから人気の高かった職業を紹介しましょう。

今では死語、廃止されてしまった職業もあるので詳しく解説します。

 

【バスガール】

現在でも女性が憧れる仕事のひとつにバスガイドがあります。

バスガイドは観光客とともにバスに同乗し、行く先々の案内をする職業ですが、バスガールとバスガイドは性格が異なります。

まず、バスガールとはどのような職業の女性なのかを簡単に説明しましょう。

 

バスガールはダイヤと呼ばれる時間を計るための計器(時計ではないのでご注意を)を設定し、バスの運転手に経路の指示と時間の管理をします。

また、現在ではワンマンバスが主流となっており、運賃箱やカードなどで運賃が決済されているのですが、当時はそれらがないためバスガールが運賃の会計をしました。

 

また、次に停車するバス停の案内やバス停で待つ乗客へ行き先の案内をするのもバスガールの仕事でした。

 

【電話交換手】

プッシュホンやダイヤル式の電話機では電話番号を入力するだけで電話をかけたい相手の電話機につなぐことができますが、当時の電話は電話番号を入力する文字盤すらありませんでした。

それではどのようにして電話を掛けたい相手までつなぐことができたのか?その重要な役割を担っていたのが電話交換手です。

 

まず、電話をかけたい人が電話をかけるときには手回し式の発電機により電気を起こすと、現在のNTTの前身である日本電信電話公社(電電公社)に繋がり、電話交換手が電話に出ます。

かけた者が「何番」または「どこどこの誰々さん」と指定すると電話交換手が導線の端子をかけたい相手の電話につなぐ端子に差し込んで電話を繋ぎました。

 

電話交換手は女性の方が望ましいと言われていた職業なのですが、その理由は声の高さにあります。

当時の電話の性能は劣っていて「シャー」、「ズズッ」といったノイズ音がすることが多くありました。

男性の低い声とノイズ音は同化しやすく分かりづらかったのに対して、女性の高い声は通りやすくて聞き取りやすかったので女性の電話交換手が多く採用されました。

 

【紡績業・製糸業】

紡績業や製糸業はとても単純作業ですがそれと同時に繊細な作業でもあります。

なんせ細かい繊維を紡いで糸を作り出すのですから当然のことです。

きめ細やかな作業では男性よりも女性の方が向いていて、なおかつ多くの人手を必要としたので賃金の安かった女性が多く就きました。

 

【産婆・婦人科医】

妊娠や出産、子宮、卵巣などの病気は男性が絶対に経験することのないことです。

現代では科学技術が発達してきた為、男性の産婦人科医も多くいますが、当時は女性の産婆や産婦人科医というのが普通でした。

 

女性の産婆や婦人医はまさに女性特有の痛みや苦しみを知るプロです。

自身もその境遇に立ち、経験をしているわけなのですからその者からのアドバイスはとても説得力があります。

それゆえ、産婆や婦人科医になる女性は多かったのです。

 

まとめ

 

大正時代は婦人解放運動があったことや、戦争が頻発したことにより女性の労働力が必要になったという時代背景もあり、女性の社会進出が急速に進んだ時代です。

 

この大正時代から始まった女性の社会進出では専業主婦とは区別された職業婦人やモダンガールなどが活躍しました。

特にモダンガールは当時のファッションリーダー的な地位を確立しており、スカートやパーマなどを流行らせたのがモダンガールだとも言われています。

 

また、職業婦人やモダンガールはバスガールや電話交換手、産婆、婦人科医など女性でなければならない要因を持つ仕事や女性の方が望ましいと言われた職業に就きました。










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1 個のコメント

  • とてもわかりやすかったです!
    もっと深くこの時代について知りたいと思いました。
    参考にされた文献などございましたら、ご教示いただけないでしょうか。
    宜しくおねがいします。

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