太平洋戦争に関わった最も有名な人物・山本五十六とはどんな人物?







太平洋戦争に関わった最も有名な人物といえばやはり、開戦時の連合艦隊司令長官だった山本五十六ではないでしょうか。

山本五十六に関しては、戦後、多くの本が出版され、小説、映画、漫画とエンタメの世界でも主役や重要な役どころとして登場します。

 

太平洋戦争が終わってもう70年以上が経ちます。しかし最近でも百田尚樹氏の小説「永遠のゼロ」の大ヒット。そしてゲーム、ネット、漫画、アニメの世界では「艦これ」がブームとなっています。

現在、週刊ヤングマガジンで連載中の三田紀房氏の「アルキメデスの大戦」も注目を集めヒット中です。太平洋戦争を舞台としたエンタメ作品はいまだに市場をにぎわせています。

 

これは太平洋戦争が、日本が体験した最後の近代戦であったことが大きな理由でしょう。

実際アメリカでは第二次世界大戦が日本ほどに熱心に語られることは少ないです。それはアメリカがその後も戦争を続けてきたからでしょう。

その意味で、日本にとって太平洋戦争とは、非常にインパクトのある歴史的事件として現代にも影響を与え続けています。

 

では、その太平洋戦争の序盤で中心となった人物である山本五十六

対米戦に反対しながらも、開戦となると中心となり戦い、そして戦いの中で斃れた男――

連合艦隊司令長官・山本五十六とは、どのような人物だったのでしょうか。

 

山本五十六はどんな人だったのか?

山本五十六は「高野家」に生まれ、長岡藩(新潟県)の家老であった山本家の養子に入ったことで「山本」五十六となりました。ちなみに「五十六」は山本五十六が生まれたときに父の年齢からとったものです。

彼は海軍兵学校に入学し、海軍のエリートコースに乗ります。日露戦争も海軍少尉で経験し、左手の人差指と中指を吹き飛ばされる怪我を負っています。

 

陸上攻撃機

山本五十六はアメリカに留学し、海軍の中に止まらず当時の日本の中でもアメリカを良く知っていた人物のひとりでした。

日本海軍は航空戦力の充実を計画し、太平洋戦争で大きな戦力となった、陸上攻撃機という他国海軍にはない独特の兵器を配備しました。

陸上攻撃機は、島嶼から発進して、敵艦を攻撃するというコンセプトの兵器でした。

開戦初頭に、イギリスの戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを撃沈しています。

これは、航空攻撃だけで、作戦中の戦艦を沈めた初めての事例でした。

陸上攻撃機は、軍縮条約で仮想敵国であるアメリカに対し劣勢であった日本海軍がいかに戦うか考えて創りだした兵器です。

それを主導したのが山本五十六だったのです。

 

戦争に対する考え

山本五十六は、確かに対米戦に反対していましたが、決して軍縮に賛成していたという立場ではありませんでした。

その点、幕末における長岡藩の「高度武装中立化」を計画した河合継之助の考えに似ているかもしれません。山本五十六の故郷の人物です。

相手に対抗できる強大な兵力を持つこと。その均衡がなければ、平和は維持できない。

山本五十六はそう考えるリアリストだったのでしょう。

彼は、軍縮条約会議にも参加し、軍縮条約を進めようとする方針に最後まで反対していました。

 

また、山本五十六は、三国同盟にも強烈に反対であったという話が伝わっています。

しかし、史実の史料を見ると、積極的に賛成はしないものの、強固な反対派であったというわけではかったようです。第二次世界大戦のドイツの戦い方を賞賛していた言葉も残っています。

 

また、対米戦に対しても、はっきと強固に反対したという訳ではなかったようです。

「対米戦になったら、自分も飛行機、潜水艦に乗り、戦ってやる」と武人らしい言葉を残しています。

そして、対米戦が避けられない情勢の中、山本五十六は、短期決戦のため、真珠湾攻撃を計画し、実行することとなるのです。

 

真珠湾攻撃

空母6隻の集中運用により、遠く離れたアメリカ軍の太平洋の要石であるハワイを攻撃することを提案します。

思いついても実行するとなると問題山積みの作戦です。当然反対意見が続出です。

山本五十六は、作戦反対派に対し、職を辞しても実行すると迫り、真珠湾攻撃を強行させました。

作戦は軍事的には成功し、アメリカは半年間も満足な作戦行動がとれないほどの被害を受けました。

 

ミッドウェー作戦と山本五十六の最後

しかし、同じように山本五十六が強硬に意見を通し実行したミッドウェー作戦は空母4隻を失う大敗となります。

このあたり、山本五十六が「博打好き」でアメリカ時代もカジノに入り浸っていたことから、真珠湾攻撃は「博打好き」の成功。ミッドウェー作戦は「博打好き」の失敗と批判されることがあります。

 

ミッドウェーでの敗北後、日本海軍は太平洋戦争での戦争の主導権を失います。

そして、ガダルカナル攻防戦による消耗と経て、防戦に手いっぱいとなっていきます。

 

そのような中、山本五十六は、大規模な陸上基地からの反撃作戦である「い号作戦」の陣頭指揮のため前線を視察することになります。

山本五十六は「一式陸攻」に搭乗して移動しました。

「一式陸攻」は、航空主兵を主張した山本五十六の生み出したと言っていい兵器であり飛行機でした。

山本五十六はその移動中をアメリカに狙われます。乗機は撃墜され山本五十六は、ブーゲンビル島上空で戦死しました。

 

山本五十六はどんな性格をしていたのか?

「やってみせ、言って聞かせ、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」

という今でも伝えられる山本五十六の名言があります。

 

今でもビジネス指南書などに引用されることの多い言葉です。

しかし、本人がそうであったかというと、評価は微妙になります。

 

山本五十六は「言って聞かせ」が苦手?

まず、山本五十六は「言って聞かせ」が凄く苦手な人だったのです。

真珠湾攻撃でも、ミッドウェー作戦でも、その作戦の目的はなんであったのか?

山本五十六の考えはどのようなものであったのかについて、実行部隊の指揮官に伝えきれていないのです。

 

特にミッドウェー作戦では「アメリカ空母の撃滅」と「ミッドウェー島」の戦力のどちらが作戦目的なのかが徹底されておらず、右往左往している最中に、アメリカの反撃を受け大敗するのです。

この点、彼は「言い訳」もしませんし、部下に責任を取らせることもしませんでした。

ただ、本心を人に明かして、人を論理で説得するというタイプではなかったようです。

交渉の切り札は「職を辞す」です。

そこには「言って聞かせ」はありません。

山本五十六は、非常に腹の内が見えない複雑な人物であったのではないかと思えます。

 

長岡藩の反骨精神

山本五十六の生まれた時代を中間点とすれば、明治維新の方が現代よりも近い時間軸の上にあります。

そして、生まれ故郷である長岡藩は、賊軍として強力な官軍(薩摩、長州連合軍)に敗れます。

そのような時代の方が近いときの人物であり、長岡藩の家老の家の養子となった人物です。

 

長岡藩には、幕末動乱の中で名高い河井継之助がいました。

彼は強力な官軍が迫ってくる中、長岡藩の「武装中立」を計画します。

ガトリング砲やフランス製の新式小銃を備え、小藩ながら強力な軍事力を創り上げるのです。

そして、その軍事力を背景に長岡藩の「武装中立」を狙い交渉しますが、交渉は失敗し、官軍との戦闘になり、その戦闘の最中に斃れることになります。

 

山本五十六が、この河井継之助の話を聞いていた可能性はかなり高いでしょう。

なにせ、長岡藩の家老の家に養子に入ったのですから。

その点から、山本五十六は、戊辰戦争における長岡藩の巨大な官軍の武力に一歩も引かなかった反骨の精神風土の影響を大きく受けたと主張する半藤一利氏などの歴史研究家もいます。

とにかく、山本五十六は頑固でした。自分の主張を滅多に曲げません。そして、本当に本心を見せることが少なかった人物のようです。


山本五十六の先を見通す力

山本五十六は頑固であっても戦後の一部の人が評するような愚物ではありません。

部下に対する思いやりもあり、先を見通す力もありました。

山本五十六がいなければ、日本の航空産業は急速に欧米に追い付くことはなかったでしょう。

『プロペラの国内生産体制の主導』

『アルミ生産体制の主導』

『対米戦における航空戦力の拡充の主導』

実は山本五十六は当時、対米戦に反対位より日本から仕掛けたら勝ち目はないと見切っていたと思います。

 

しかし、山本五十六は、はっきりとそれを明言しませんでした。

戦後、この態度を批判する声もあります。

海軍が対米戦を理由に大量に予算を使って、いまさら「勝てません」といえない。であるから、あやふやな言葉で逃げたという批判もあります。

 

しかし、山本五十六は軍人なのです。政治家ではありません。

勝つために最善をつくすのが軍人であり、そのために命を捨てる覚悟を持つ者が軍人だったのです。

そして、勝てないと思いつつも、自分の育成してきた対米戦のための戦力を目いっぱい使って戦いたいというその時代の軍人の本能のようなものを持っていたのではないでしょうか。

勝てるかと聞かれたときに「負けます」と答える時点で、その人物は武人ではありません。それは政治家です。

その意味において山本五十六は生粋の武人であったのだろうと思います。

 

山本五十六はなぜ真珠湾攻撃を強行したのか?

 

それでも山本五十六は、対米戦を長期戦にすれば必ず負けると予想していたのでしょう。

唯一の勝機と山本五十六が考えたのは、短期決戦です。

 

短期間で、アメリカの士気がへし折れるような損害を与え、戦意を喪失させること。

軍人という立場の山本五十六が考えられるのは職務上もこれが限界です。

そしてそのために発案されたのが「真珠湾攻撃」であったと言われます。

 

短期決戦の為の真珠湾攻撃

とにかく、アメリカが「これ以上日本と戦うのは不利益」という判断をする状況を作り出すことが山本五十六の目的であったのだと推測できます。

しかし、当時の人たちはその山本五十六の考えを知ることができません。

彼は自分の腹心の部下、ごく一部の親しい者でも、その内心を中々打ち明けないのです。

しかも、大日本帝国としての戦争方針は「対米戦は長期持久」でした。

南方資源地帯を押さえ、国力をつけ、太平洋では防戦を中心として、ズルズル戦争をして、イギリスの脱落。もしくは、蒋介石政権が白旗上げるのを待つという方針だったのです。

そのような中、真珠湾攻撃は「南方資源地帯」を攻略する作戦の「支援作戦」として意味づけられ、実施されたのです。

 

当初、山本五十六は、ハワイ基地に対し空母艦上機による「全員特攻」という恐るべき案を提示しています。

これは、「日本人の恐怖をアメリカに教え、戦争を終わらせる」という短期決戦を目指した案、「そもそも対米戦は普通にやって勝てるわけがない」という戦争に反対した案であるという二つの見方があります。

実際、そのような案は却下され「南方作戦・支援作戦」としての真珠湾攻撃作戦は実施されます。

山本五十六は、早期にアメリカ軍の士気をへし折る目的だったのでしょう。

しかし、それを部下に伝えることは無かったのです。


真珠湾攻撃の成功と三次攻撃

真珠湾攻撃が成功し、三次攻撃を仕掛けるかどうか、当時連合艦隊司令長官であった山本五十六の幕僚からは「三次攻撃」をやるように艦隊指揮官の南雲中将に督促すべきという意見も出ました。

しかし、山本五十六は「やる奴は黙っていてもやるよ」と言って督促はしなかったのです。

 

そもそも、日本海軍の持ち持ちえる戦力では、史実の攻撃が限界だったでしょう。

戦史叢書の「海軍軍戦備<1>」には、開戦当初から弾薬が不足していたことが書かれています。

戦後言われるような、徹底的に真珠湾の基地を破壊するような攻撃をする力は元々なかったのです。

そして、空母を捕捉できなかったのは、日本海軍の多くの幸運の中のひとつの不運であったとしかいえないのです。

 

山本五十六はなぜ前線視察中に撃墜死したのか?

 

真珠湾攻撃により、日本は半年という大きな時間を得ました。この間、アメリカ海軍は日本海軍に対し有効な反撃手段を持ちえませんでした。

それによって、南方作戦はアメリカ海軍の妨害を考える必要がなくなり、おどろくほど順調に進みます。

日本は、南方資源地帯の占領に成功し、大日本敵国の戦争方針であった「長期持久体制」は出来上がるのです。

 

ミッドウェー海戦とガダルカナル侵攻

しかし、山本五十六はそもそも「長期持久体制」なぞ無理であると思っていました。確かに守りに徹してズルズル戦えば、史実以上に戦争長引かせることは可能であったかもしれません。

しかし、日本がアメリカに勝てるかというと、そのチャンスは全くなくなります。

時間の経過は日米の戦力差を乖離させ、時間が経過すればするほど、日本の勝つチャンスは無くなっていくのです。

 

そして、アメリカの主導権を渡さないために山本五十六は国家の戦争方針に反し、積極的な侵攻作戦を打ち出します。

その中で実施された、ミッドウェー海戦は惨敗。空母4隻を失います。

 

更に、アメリカとオーストラリアの遮断を狙った布石であった、ガダルカナル侵攻によって、大規模な消耗戦に日本海軍は引きずり込まれました。

この間の戦闘や戦果は日米互角だったのです。

しかし、互角であるということは、より生産力のあるアメリカが勝利しているというのと同じでした。

 

そして、山本五十六は、戦局を打破する大規模反攻作戦を実施します。

その前線視察中に乗機ごと撃墜され戦死するのですが、本当のところ山本五十六は、この視察に自分が行くのは反対だったのです。前線をウロウロする指揮官などいないという主張です。

しかし、周囲の者に説得され前線視察を実施しました。

当時、アメリカ軍は、日本軍の暗号を解読していました。しかし、日本軍も薄々その可能性を感じており、頻繁に暗号用の「乱数表」を変更して対抗していたのです。

ただ、この対抗の方法は現場に負担をかけ、手間を多くし、しかも「古い乱数表」を使ってしまうというミスも起こさせます。

 

その結果、山本五十六の前線視察計画はアメリカに筒抜けとなります。

ただ、アメリカ側でも、暗殺のような形で、山本五十六を狙うことには賛否があったのです。

一番、問題となったのは、山本五十六を倒した場合、より有能な指揮官が出てこないかという点です。

アメリカ側はその人材を山口多聞であると判断しました。

しかし、すでに彼はミッドウェー海戦で、空母飛龍と共に蒼海沈んでいました。

結果とし、暗号解読情報により、山本五十六機は狙われ、彼は戦死します。

その遠因は、ミッドウェー作戦の失敗であり、そこで後継者となるべきであった山口多聞を失ったことだったのです。

 


山本五十六は本当に名将だったのか?

太平洋戦争で有名なものを三つあげろといわれれば「零戦」「戦艦大和」「山本五十六」と言う時代がありました。

今、ネットやコミックでは「艦これ」がブームになっています。

それのせいか「戦艦大和」など軍艦の名を検索すると「美少女擬人化」されたイラストがいっぱいでてきます。

 

もう太平洋戦争は「悲惨な歴史」という湿った歴史ではなく「乾いた歴史」になってきているという主張は近代史を専門とする歴史学者、一之瀬俊也氏も主張することころです。

 

山本五十六への賛否

そして、山本五十六も多くのフィクションの中に登場します。

その多くが、山本五十六を賛美する内容になっています。対米戦に反対しつつ、それでも先頭に立って戦い、戦いの中で死んだ名将という形で描かれることが多いです。

そのようなエンタメの作り上げたイメージと、ビジネス書などが一時期大きく取り上げた海軍式考えをビジネスに取り入れるというブームも山本五十六のイメージを美化させる方に動きました。

 

こういった山本五十六「名将論」に対し、それに反論する動きも出てきます。

山本五十六は「愚将」であったという主張です。

確かに彼は多くの失敗を太平洋戦争でしています。後世の目でみれば「こうすればよかった」というような「悔しい場面」が多いのが序盤の太平洋戦争です。

 

「ハワイへの徹底した攻撃をなぜ行わせなかったのか」

「ミッドウェー作戦ではなぜ、戦艦部隊をあんなに後方に下げていたのか」

 

作戦、ひとつひとつの批判は少なくありません。

しかし、それをもって、山本五十六を「愚将」だとするのはあまりに短絡的です。

日本の負けた理由を個人の責任にして焦点をぼやかす論であると言えるでしょう。

 

連合艦隊司令長官・山本五十六の作戦指導に問題があったのは確かかもしれません。

彼の「腹を見せない」態度は現場を混乱させたかもしれません。

しかし、山本五十六には、山本五十六の論理があって、その中で動いた結果です。

そもそも、ミッドウェー海戦などは、勝った方のアメリカがその理由を「ラッキー」と言っているくらいです。

暗号を解読して待ち伏せしていても、アメリカにとってそれは「避けられない敗北宣告」を先に受けたようなモノであったと感じられたのです。


トータルでみれば優秀な軍指揮官であったことは間違いない

山本五十六は、決して天才的な軍略家ではないです。

読み違えもするし、失敗もする。

しかし、トータルでみれば、優秀な軍指揮官であったことは疑いの余地はないと思います。

 

真珠湾攻撃がなければ、南方作戦は史実のように、進まなかったでしょう。

山本五十六を中心とした航空主兵勢力が、軍備を整えてなかったら、太平洋戦争はもっと一方的な物となっていた可能性もあります。

 

山本五十六批判の中で最も古いものは、戦後刊行された「源田実論」の中に記された柴田武雄大佐の体験からくる主張ではないかと思います。

彼は、航空機の機銃の命中率を上げるための、遠方からの射撃訓練と、照準装置の改良を、山本五十六に意見具申します。

しかし、山本五十六は「海軍は肉薄攻撃を旨とする。そのような提案を二度とするな」と却下します。

これを持って、山本五十六は科学を理解できない愚物であるという批判を展開します。

 

しかし、両者の考えの違いは、その組織の中にいる者の、立ち位置の違いから生じる物です。

山本五十六からすれば、そのような改革は、教育教本の見直しを含み、膨大な費用と手間のかかる改革であると分かるのです。

『そのコストに日本海軍が耐えられるのか?』

という点で山本五十六は考えたのだと思います。

史実では日本海軍は訓練用の銃弾の供給にすら事欠くのです。

より訓練の弾薬消費量を増やすような改革は理屈の上で正しくとも、海軍の体力でできなかったのでしょう。その上での「肉薄攻撃」の堅持であったと思います。

 

事実、第二次世界大戦中、みこし角度を計算した遠距離射撃を中心に行ってくるのはアメリカ海軍くらいのものでした。

そして、それは潤沢な訓練用の銃弾が保障されねば、身につかない技術です。

 

山本五十六は、優秀な軍人であったことは確かです。

そして、その優秀さゆえに、日本海軍の限界も知っていたのでしょう。それゆえの判断が、戦後誤解され、「愚将論」が出てきたのではないかと推測できるのです。

山本五十六は、やはり日本海軍が当時起用出来た最高の指揮官であり、おそらく彼以上の人材はいなかったでしょう。

そこのことを一番認めていたのは敵であるアメリカだったのです。












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