聖徳太子は冠位十二階や十七条の憲法を制定したり、遣隋使の派遣や法隆寺を建築したりと日本史上では欠かすことのできない古代日本のカリスマです。
そんな聖徳太子は小野妹子(おののいもこ)に託したある手紙で当時の中国(隋)の皇帝であった煬帝(ようだい)を激怒させました。
聖徳太子が隋の皇帝煬帝を怒らせたその手紙にはいったい何が書かれていたのでしょうか?
それは有名な書き出しで始まります。「日出ずる処の天子書を日没する処の天子に致す」です。
本記事ではこの有名な書き出しで始まる聖徳太子が隋の皇帝『煬帝(ようだい)』へ送った手紙やその背景について解説します。
聖徳太子はどうしても隋と関係を結びたかった
聖徳太子は隋とどうしても関係を結びたいと考えていました。そのために手紙を出すのです。
聖徳太子が隋と関係を結びたがった理由は3つあります。
①まずひとつは聖徳太子や小野妹子が生きていた時代に該当する飛鳥時代の日本はまだ国づくりの基礎もままならず、国づくりはどうしたらよいのかお手本となるものをさがしていました。
そこで、太古より都が築かれ日本よりも1000年以上前に法治国家の体制を作った隋を手本にしたかったのです。
②2つ目は渡来人よりもたらされた大陸の文化や仏教などの学問を身に着けた知識人を登用し、従来の世襲制度を見直しを行いたかったこと。
③3つ目は朝鮮などの外敵からの圧力を隋と関係を結ぶことによって牽制したかったからです。
このような理由があり、隋と関係を結んでいざという時の後ろ盾や、司法や行政の手本とするべきだと聖徳太子は考えました。
第1次遣隋使は隋の人々を混乱させた
聖徳太子は西暦600年に隋と国交を結ぶため、第1次遣隋使を派遣します。
第1次遣隋使は小野妹子を始めとした聖徳太子を支持する官吏が派遣されました。
その第1次遣隋使と隋の使者が面会をしたときのことです。
第1次遣隋使は隋の使者から日本の国政の状況について聞かれました。そのとき第1次遣隋使はこのように話しました。
「倭国の王は天を兄、太陽を弟とします。天が暗いうちに政治をし、太陽が昇った後は政治をやめ、あとは弟の太陽に任せます。」
上記の文章をさらに簡単にすると「日本では夜中に政治をします」と回答したのでした。
これを聞いた隋の使者はキョトンとし、ありのままを当時の隋の皇帝に報告します。
すると、隋の皇帝は「倭王は昼間はなにもせず、夜中に政治をしているだと?全く道理にかなっておらぬ。なんと遅れた国なんだ。」と呆れさせてしまいました。
第1次遣隋使がなぜこのような回答をしたのかと言うと、「天皇陛下は天や太陽に等しい」と言うことを証明したかったのですが、これが完全に裏目に出てしまいました。
正直なところ日本人である我々の目から見ても確かにこのような回答では意味が全く伝わらないと判断できます。
呆れた隋の皇帝は第1次遣隋使と対面することを拒み、聖徳太子の計画は序盤から行き詰まってしまいます。
遣隋使が失敗してから聖徳太子が行ったこと
第1次遣隋使が隋の皇帝に面会することがかなわず、失敗に終わってしまったことを聞いた聖徳太子は「このままではいけない」と隋の法律を勉強、研究して国の諸制度の改革に着手します。
そうして西暦603年には冠位十二階を制定、その翌年には十七条の憲法を制定するなどして国づくりの基礎を急ピッチで整備しました。
そして第1次遣隋使を隋に派遣してから7年後、小野妹子をリーダーとして再び遣隋使を隋へ派遣します。
《問題の手紙》聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙を読んだ煬帝は激怒
高麗や百済などの国々が”従属するので関係を結んでください”と下手に出て隋と関係を結んでいたのに対して、聖徳太子はあくまでも対等な関係を隋と日本の間で結ぼうとしていました。
聖徳太子が書いた手紙の内容を呼んだ蘇我馬子(そがのうまこ)はその手紙を送ることに強く反発しました。
しかし、聖徳太子は譲らず、第2次遣隋使の代表者であった小野妹子に手紙を持たせました。
遣隋使の代表者として隋に渡り、当時の隋の皇帝である煬帝にお目通りが叶った小野妹子は聖徳太子から預かった手紙を煬帝に差し出しました。
煬帝はその手紙を受け取ると、冒頭の文章をひと目見ただけで激怒しました。
聖徳太子の手紙の何に煬帝は激怒したのか?
このとき聖徳太子が煬帝に送った手紙は冒頭に紹介したとおり、「日出ずる処の天子書を日没する処の天子に致す」という書き出しから始まります。
これを読んだ煬帝は「この世に天子は朕(私)だけだ。私ただ一人が天子なのだ。この世に天子は2人もいらない。」と激怒します。
それに加えて「たかが小国の野蛮な輩ごときが、大陸の覇者たる隋と対等な感じが気にくわない」ともその理由を明かしています。
つまり「天子は煬帝ただ一人。相国の倭の王が天子を名乗るとは何事だ」ということです。
確かに、隋と日本とでは治める国の規模も民の人口も大差があります。
そんな格下の者がひょっこり現れて「自分とあなた対等だ」と言われたら誰でもイラっとしてしまいます。
まとめ
煬帝が激怒した聖徳太子の手紙には「日出ずる処の天子書を日没する処の天子に致す」と書いてありました。
煬帝が怒った理由は
手紙の書きだしを《日出ずる処の天子=日本の天子》から《日没する処の天子=隋の天子(煬帝)》への手紙としたことです。
煬帝は自分ただ一人が天子であり、格下の者(日本の天皇)が天子と名乗って自分と対等な関係を結びたいと強気な態度をとったことに対して激怒したのです。
この手紙を送った後の展開としては、聖徳太子は粘り強く隋との交流を続けていたことが分かっていますので、この手紙によって隋との関係が断絶してしまうということもなかったようです。
隋としても格下ではあるが、日本と交流しておいた方が得策だという思惑があったのでしょう。この後の展開については機会があればまた別記事にてご紹介したいと思います。
とっても分かりやすいですね!
社会の問題にこんな感じのが出ていたので、調べてみたらこの記事が出てきて、納得できました!
ありがとうございます。