戦国時代から江戸時代、数奇な運命をたどった「浅井三姉妹」……
長女の淀殿が創建し、三女のお江が再興した養源院は、動乱の世を駆け抜けた人々を弔う、徳川家の菩提所(ぼだいしょ:代々その寺の宗旨に帰依して、(先祖の)位牌を納めてある寺)です。
三つ葉葵の幕が印象的な本堂の玄関から廊下を進むと、俵屋宗達(たわらやそうたつ)の杉戸絵や血天井に目を奪われます。
浅井、織田、豊臣、徳川とゆかりの深い「養源院」、その歴史と見どころをお届けします。
お江と秀忠の位牌に残る「菊」「葵」「桐」の3つの紋
浅井長政(あざいながまさ)とお市の方(信長の妹)の長女・淀殿が、父と祖父(浅井久政)、兄(万福丸)の二十一回忌に、追善供養のため養源院を創建しました。
追善供養とは、故人の冥福を祈り供養することで、その功徳を死者に振り向け、やがて自分たちにも戻ってくるという仏教の思想に基づく儀式のことです。
寺号(寺の正式名称)の養源院は、長政の院号(戒名:養源院天英宗清)からとられました。
その後、落雷により焼失するも、淀殿の妹(お江:2代将軍徳川秀忠の継室)により再興されました。
養源院は、徳川家の菩提所となり、秀忠から14代将軍家茂までの位牌が安置されています。
お江と秀忠の位牌にしるされた「菊」の紋は、お江と秀忠の五女・徳川和子が後水尾天皇のもとに入内(じゅだい:皇后となる女性が正式に宮中に入ること)したことによります。
また、お江と豊臣秀勝(2代目関白秀次の弟)との間にできた完子(さだこ)は、淀殿に引き取られ、後に関白となる九条幸家に嫁ぎました。
その子孫(九条 節子:くじょう さだこ)は、大正天皇の皇后であり、昭和天皇の母となります。
現在の皇室は、織田・浅井・豊臣・徳川家の血を受け継いでいることになるのですね。
浅井から徳川まで、養源院の略年表
- 永禄10年(1567)浅井長政は、信長の妹の市を妻とする
- 天正元年(1573)9月1日、織田信長に攻められ浅井氏は滅亡
- 天正16年(1588)浅井長政とお市の方の長女・茶々 が、秀吉の側室になる
- 天正17年(1589)茶々が淀城に入り、淀の方と呼ばれる
- 文禄3年(1594)淀殿が父・浅井長政らの供養のために、養源院を創建した
- 慶長3年(1598)秀吉死後、淀殿は、秀頼と共に大坂城に入る
- 慶長5年(1600)伏見城の戦い
- 慶長20年(1615)大坂の陣で豊臣方が敗れ、淀殿は秀頼と共に自害する お江(淀殿の妹)は、徳川秀忠の継室(後妻)になり、やがて千姫、家光、忠長らを産む
- 元和2年(1616)5月7日、2代将軍秀忠の継室崇源院(お江)により、姉の淀殿と豊臣秀頼の菩提が弔われた
- 元和5年(1619)落雷が原因の火災により消失する
- 元和7年(1621)崇源院の願により、秀忠が伏見城の遺構(残存する古い建造物)を移築し再興した 鳥居元忠の追善のために血天井を張る 俵屋宗達が襖絵と杉戸絵を制作
以後、徳川家の菩提所、位牌所、皇室の祈願所になった - 明治元年(1868)神仏分離令後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教を排除し、寺などを壊すこと)により、本堂以外の伽藍や庭が破却される
- 昭和20年(1945)創建時は天台宗だったが、第二次世界大戦後に浄土真宗遣迎院派に改宗する
浅井氏滅亡から始まる、三姉妹波乱の人生
養源院の歴史は、浅井長政の長女が父を弔うために、豊臣秀吉に願って創建したことから始まります。
建立のきっかけとなった浅井氏滅亡の歴史を、29歳の若さで自刃に追い込まれた長政の人生を通して、たどっていきましょう。
浅井長政は、北近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井氏の3代目当主です。
1545年、長政が浅井久政の嫡男として現在の近江八幡市で生まれた当時、浅井氏は南近江の守護(領主)六角氏の支配下にありました。
1560年、元服した長政は、野良田の戦いで六角氏を破ります。
六角氏から押しつけられていた「賢政」の名と、婚姻相手を六角氏に返し離反、1563年に再び六角氏を破り領地を拡大しました。
当時、美濃の斉藤氏と戦っていた織田信長は、戦略面と上洛(じょうらく:地位を確立するため京都に上ること)にメリットのある浅井氏との同盟を提案します。
長政は、浅井氏と友好関係にある朝倉氏を攻めないという条件のもと、信長の妹の市と政略結婚をし、同盟を結びました。
1568年、信長は「足利義昭」を護衛するとの名目で京都に進軍し、浅井氏もこれに従い、途上で六角氏を滅ぼします。
1570年、将軍職に就いた義昭と信長が発した命令書に、朝倉氏が従わなかったため、信長は徳川家康と共に、朝倉氏討伐を始めます。
長政は恩義のある朝倉氏との同盟を重視し、織田・徳川軍を挟み打ち(金ヶ崎の戦い)にしますが、続く「姉川の合戦」では、浅井・朝倉軍は敗れてしまいます。
1573年、信長は3万の兵で北近江に進軍、援軍の朝倉氏を滅ぼし、朝井氏の小谷城(長浜市)を囲みました。
信長は、秀吉を使者として降伏を勧めますが、長政は拒否します。
自然の要害に囲まれた日本屈指の山城「小谷城」でしたが、秀吉率いる3000の兵の猛攻により、落城してしまいます。
長政は、嫡男・万福丸を城外へ逃がし、お市の方と3人の娘を織田軍に引き渡した後に自害、浅井家は滅亡しました。
小谷城は廃城となり、12万石を拝領した秀吉が、長浜城を築きました。
落ち延びていた万福丸ですが、匿われていた先で秀吉軍に発見され、関ヶ原で磔(はりつけ)にされたと伝わります。
お市と三姉妹は、信長の叔父・織田信次に預けられたとされており、本能寺の変の後、お市は柴田勝家と再婚しました。
やがて、長女・茶々は豊臣秀頼の母、次女・初は京極高次の妻、三女・お江は徳川秀忠の妻となるのです。
伏見城を死守、鳥居元忠の痕跡を残した血天井
1619年に焼失した養源院は、2年後に伏見城の「中の御殿」などを移築して再興されました。
本堂を廻る全長88mの廊下に張られた血天井は、鳥居元忠らが自害した伏見城の床板が使われています。
天下分け目の関ケ原の前哨戦となった、「伏見城の戦い」の経緯をたどり、血天井のいわれを見ていきましょう。
1598年、豊臣秀吉が亡くなると、天下をねらう徳川家康は伏見城に居座り、「五大老・五奉行の協議」を無視して、独断で重要な事を決定し始めました。
これを容認できない石田三成(五奉行)らは、1600年6月に会津征伐(上杉景勝征伐)という名目で動き出した家康の隙をつき挙兵、毛利秀元と小早川秀秋らが率いる4万もの兵で伏見城を攻めました。
守る徳川方は、鳥居元忠ら1800人の兵と、大坂城から移動してきた500人を加えた、約2300人足らずでした。
やがて、宇喜多秀家や石田三成も加わり伏見城を猛攻、徳川方は必死に抗戦するも多くが討ち死にし、残った鳥居元忠ら380余名は「中の御殿」に集まって自刃しました。
こうして、関ケ原合戦の前哨戦といわれる「伏見城の戦い」は、13日間の激しい攻防戦の末、幕を閉じました。
元忠らの遺体は、関ケ原合戦が終わるまで、約2ヵ月間放置されていたと言われ、この間に血痕や体の形の跡が床板に染み付き、洗っても削っても取れなかったそうです。
養源院再興のおり、この伏見城の床板を天井に張り、元忠らの菩提を弔いました。
ちなみに血天井は、宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院などにも伝わっています。
俵屋宗達・左甚五郎・小堀遠州:天才たちの競演
1621年、お江により再興された本堂には、芸術家の本阿弥光悦に可愛がられた、当時まだ無名だった俵屋宗達の絵が残されています。
養源院本堂の廊下を進むと、宗達画の杉戸絵「白象図」が迎えてくれます。
立体的で奇抜なデザインが特徴ですが、普賢菩薩の乗り物である象を描くことで、伏見城で自刃した武将たちの霊をなぐさめたと言われています。
ちなみに宗達は、1597年に渡来した本物の象を見た可能性があるそうです。
俵屋宗達といえば、建仁寺の国宝「風神雷神図屏風」(京都国立博物館に寄託)が有名ですが、養源院の杉戸絵と襖絵は宗達の原点であり、出世作と言われています。
重要文化財に指定されている、杉戸絵「唐獅子」「麒麟」や襖絵「松図十二面」も秀逸ですので、お見逃しなく。
廊下をゆっくり歩くと、うぐいすの鳴き声がする「うぐいす張りの廊下」は、左甚五郎(日光東照宮の眠り猫の作者)が造った伏見城の廊下を移築したと伝わります。
伏見城に忍び込んだ石川五右衛門が、廊下の音で見つかり捕まったとの逸話も残っています。
大名で茶人の小堀遠州(政一:まさかず)は浅井氏の縁戚で、父は浅井長政の家臣でした。
本堂の東に広がる、小堀遠州作の枯山水庭園は、四季折々の美しい花木で彩られます。
春の紅八重枝垂れ桜、夏のサルスベリ、秋の紅葉、冬のサザンカなどが目を楽しませてくれるでしょう。
また、豊臣秀吉の手植えと伝わる樹齢400年のヤマモモの大木は、伏見城より移植されたと言われています。
※時々催される特別公開では、淀殿とお江、豊臣秀頼の肖像画などの寺宝、お江やお市の供養塔を拝観できます。
養源院の基本情報
・拝観時間
9:00~16:00
・拝観料
500円
・アクセス
市バス「博物館・三十三間堂前」「東山七条」下車 徒歩5分
京阪電車「七条」下車 徒歩12分
・駐車場
数台
・問合せ
075-561-3887
・住所
京都市東山区三十三間堂廻り町656
養源院ゆかりの人物たちの歴史をたどる参拝
修学旅行の定番「三十三間堂」のすぐ隣にある養源院は、戦国時代から江戸時代まで、史上の人物ゆかりの寺院です。
浅井三姉妹や合戦で散った武将たちを偲びながら、ゆっくりと参拝しましょう。
養源院は、杉戸絵や血天井、庭園など見どころも豊富です。
桜と紅葉の名所ですが、シーズンでも比較的拝観しやすいスポットなので、混雑が苦手な人には、特におすすめですよ。
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