伝統芸能の中で生き続ける源義経はどんな姿をしているのか?







「判官贔屓(はんがんびいき)」ということわざの語源になるほど、稀代のトリックスター源義経という男は武士だけでなく、貴族や庶民たちからも深く愛された人物です。

源義経はいろいろな伝統芸能の演目にもなっていることから、その義経というキャラクターは昔から人々を楽しませてきたのでしょう。

 

この記事では日本のそれぞれの伝統芸能の中で義経がどのような姿をしているか?について紹介します。

 

笑いの伝統芸能 落語の中の義経

お笑い系の伝統芸能として日本には落語があります。

実は落語にも「源平盛衰記」という名の演目が存在しています。

 

落語といえばお笑いの要素が非常に強いため、本来ならば義経の武勇伝であるはずの奇襲として名高い鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかお)としや、古典で学ぶ扇の的といったエピソードについて、笑いを交えて話します。

淡々と話す落語家さんたちはどうやって武勇伝から笑いどころを作ったのかその動機を聞きたいくらいに面白く語ってくれます。

たとえば先ほどの鵯越の逆落としのエピソードでは次のように話します。

 

【伝統芸能 落語に登場する義経~鵯越の逆落とし~】

鵯越にて崖の上まで到達した義経公の軍団は呆気に取られてしまった。

「ややっ、この落差では奇襲はかけられまい。」そう部下たちがどよめく中、義経公だけは違った。

「地元の猟師の話ではこの崖を鹿が降りるのを見たらしいから、鹿にできれば馬にもできるはずだ。どれどれ、3頭ばかり崖から落としてみよう。」ってな。

「なにー?うちの大将ついに馬と鹿の区別もつかなくなっちまったのか。やれやれこれが文字通りの馬鹿ってやつだな。」

以下省略

 

さて、どうでしょう?

なかなか巧みに義経の武勇伝をうまいこと笑いの種にできているとは思いませんか?

たしか私が落語の講演を見に行ったときはこれを桂三枝師匠がお話してくれました。

 

大名が親しむお笑いだった伝統芸能 狂言の中の義経

 

狂言は能から派生した笑劇です。

庶民たちが楽しんだ落語や歌舞伎とは異なり、皇室や貴族、大名家といった比較的身分の高い人々から親しまれた滑稽話や皮肉った話、風刺した話などをフィクションを加えて演じる伝統芸能です。

狂言の中で義経は「今参り」という演目に登場します。

 

【伝統芸能 狂言に登場する義経~今参り~】

御大名が新しい奉公人(今参り)を雇うことになって太郎冠者(たろうかじゃ)が探しにいきました。

やがて就活中の浪人を見つけて連れ戻る途中、太郎冠者は浪人に入れ知恵をします。

「我が主は洒落好きだから、気の利いたことを言うといい。対面したときにきっと早くこちらへ来いと催促するから、その時は、はいではなく、”判官殿(義経)の思い人”と返事しなさい。”その心は?”と問われたら、”静かに参ろう”と言えれば喜ぶぞ」と。

「承知した。」と合点した今参りが御大名の前で進み出ます。

果たして御大名は「早く来い」と言いました。

今参りは「判官殿(よしつね)の思い人」まではうまく言えていたのに、「心は?」と問われて今参りは「弁慶」と返事します。

「こやつはとんでもないやつだ」と言って御大名は不機嫌になってしまいました。

太郎冠者は「静かに参ろうと答えるかと思って、静御前のたおやかな姿を想像していたのに、よりによってあの猛々しい弁慶の名を挙げるとは…。だいたいいつの世に、荒々しい弁慶と判官殿(義経)が夫婦の契りを交わしたというのだ?この役立たずめ。」と皮肉って終幕します。

 

公家や大名家の親しむ演劇の伝統芸能 能の中の義経

 

能が大成したのは室町時代と言われています。

それまでは、演劇の類の娯楽は日本に存在しませんでした。

中国の伝統芸能である京劇の基礎ができ始めたのもこの頃らしく、日本の伝統芸能である能にも少なからず影響を及ぼしています。

 

京劇では項羽と劉邦や三国志など武将たちの英雄伝やラブストーリーを題材とした演目が多いのですが、能では武将や妖怪などを題材として演目が多いです。

源平合戦もその例外ではなく、伝統芸能である能の演目に採用されています。

中でも頻繁に登場するのが義経です。

義経が登場する能の演目には

  • 鞍馬天狗(くらまてんぐ)
  • 関原与一(せきはらよいち)
  • 橋弁慶(はしべんけい)
  • 烏帽子折(えぼしおり)
  • 湛海(たんかい)
  • 屋島(やしま)」

などがありますが、そのうちの鞍馬天狗を紹介しましょう。

 

【伝統芸能 能に登場する義経~鞍馬天狗~】

鞍馬山の花盛りの頃。寺僧たちが稚児(ちご)を連れて花見を楽しんでいると、突然山伏が割り込んできました。

驚いて引き上げる僧侶と稚児たち。

しかし、一人だけ残った少年がいました。

山伏に「どうして残った?」と問われるとその少年は、

「逃げおおせた稚児たちは清盛の子なり。我は花にも月にも見捨てられた源義朝(みなもとのよしとも)が九男、源九郎牛若(みなもとのくろううしわか:義経)なり。」

と自己紹介をしたのち、先の大乱にて父兄を殺され母と兄らと離れ離れになった身の上話を展開します。

少年こそ後の義経であり、山伏こそは鞍馬山に住む鞍馬の大天狗でした。

やがて小天狗たちが現れて義経と剣術の稽古をします。

そのうち、いかめしい姿を現した大天狗は義経に兵法を伝授し、いつまでも守護すると約束して山奥深くに姿をくらまし終幕します。

 

庶民たちの娯楽になった伝統芸能 歌舞伎の中の義経

歌舞伎は江戸時代の庶民たちの娯楽として流行しました。

日本の伝統芸能である歌舞伎には能から取り込まれた演目や狂言から取り込まれた演目、歌舞伎独自の脚本が書かれた演目などたくさんあってどれも見ごたえがあります。

 

どうやら江戸の庶民たちは稀代のトリックスター義経よりも弁慶の金剛力や死に際の立ち往生に男気を感じたのか、義経よりも弁慶が目立っています。

弁慶の登場シーンなんかは本来弁慶は僧兵なので、法衣に頭巾を被っているはずなのですが、義経が兄頼朝に追われていたときに扮していた山伏の恰好をしています。

 

たしかに義経の武勇伝を演じる「屋島」や「弓流し」といったエピソードが盛り込まれている演目もないことはないのですが、人気の高い演目では義経は英雄というよりも英雄である弁慶の上司として出ることが多いです。

義経はドンと構えて神格化される役どころであったり、豪快一筋の弁慶の立ち回りに美しさや雅さを付け足すための対になる役どころなど、歌舞伎をよくわからない私から見れば弁慶が主役で義経が脇役なのではないかと思える印象を受けました。

 

まとめ

日本の伝統芸能である落語、狂言、能、歌舞伎の中で稀代のトリックスター義経は生き続けています。

 

残念ながら晩年の彼は実の兄から追われる身となって自害してしまったのですが、その悲劇から判官贔屓という言葉が生まれ、歌舞伎でおなじみの弁慶の立ち往生や関所を潜るためにわざと弁慶が義経を杖で殴るような名シーンが生まれました。

 

私は落語や狂言などを見るまでは、歌舞伎や能で演じられているように義経は悲劇のヒーローかトリックスター、天才児などの一面しかないと思っていました。

しかし、お笑いに特化した伝統芸能の中では身体的特徴(ちびで出っ歯)などをいじられていたり、ダジャレを織り交ぜながら小ばかにされていて、笑いのネタやコメディアンが演じる憎めない大将としても生き続けています。

 

是非皆さんもこれら義経を題材とした伝統芸能を見に劇場に足を運んでみてはいかがでしょうか?










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