豊臣秀吉は太閤となってさまざまな改革を行いました。
田んぼの地質や生産量を割り出した太閤検地(たいこうけんち)やキリスト教を排除する命令である伴天連追放令(ばてれんついほうれい)、刀狩令(かたながりれい)がその例です。
こちらの記事ではその中のひとつ刀狩令について取扱いたいと思います。
刀狩令とはそもそも何なのか?なんの為に行われたのか?
そして、刀狩令がもたらした効果や庶民に与えた影響、その後の様子について解説していきます。
『刀狩(かたながり)』は豊臣秀吉が行った改革のひとつ
豊臣秀吉が行った代表的な改革のひとつに数えられる刀狩令。
日本史の授業では安土桃山時代の末期、ちょうど天下分け目の関ケ原の戦いの直前に学ぶ重要ワードです。
1588年8月29日に豊臣秀吉が行った刀狩は、兵農分離(へいのうぶんり)を推し進めるため、全国の農民や庶民が帯刀することを禁止すると同時にそれらの者から刀を没収して武装解除をさせた命令です。
兵農分離(へいのうぶんり)は、日本史における用語の一つで、戦国時代から江戸時代にかけて推し進められた、武士階級とそれ以外の階級との身分的分離政策を指す。江戸時代には、江戸幕府が国政を管掌する途上において、武士と他の階級を明確に区別し、武士を最上位に置く体制を確立した。~wikipediaより引用
ところが、この刀狩令では刀以外の武器の所有は禁じられておらず、刀を持つことを禁じられた庶民や農民でも、槍や弓などの武器を所有することはできました。
そもそも刀をすべて取り上げるということも至難でしたが、これにより、豊臣秀吉の存命中は完全な兵農分離はかないませんでした。
刀狩を行ったのは豊臣秀吉だけではない
日本史の教科書で「刀狩」が初めて登場するのは、豊臣秀吉が関白に任命されたあたりです。
それ以前にもそれ以降にも「刀狩」は出てこないので、刀狩は豊臣秀吉が最初に行ったように思えるのですが、実はその前にも刀狩はたびたび行われていました。
日本史上初の刀狩を行った人物は、鎌倉幕府第3代執権の北条泰時が最初と言われています。
ただし、北条泰時の行った刀狩令は豊臣秀吉が行ったときとは対象者が異なります。
このとき刀狩をされたのは、高野山の僧侶たちでした。
高野山はかつて最澄が天台宗を開いた総本山です。
僧侶の一般的なイメージは殺生(生き物を殺すこと)を忌み嫌い、優しそうな人が脳裏に浮かびますが、その当時の高野山の僧侶たちは政治に介入しようとする武闘派集団でした。
当時の僧侶は戦争や反乱にも参加しており、戦力が低ければそこまで危険視されることはなかったのですが、僧侶の兵士(僧兵)は武芸だけでなく知識も豊富だったので幕府や朝廷からすると脅威となっていました。
こういった武闘派集団である高野山の僧侶から武器を取り上げることによって、朝廷や幕府に逆らわせないようにしました。
またそれから約20年後には、僧侶だけでなく僧侶の護衛をする付き人たちも刀狩の対象となり、没収された刀は鎌倉大仏の材料として使われました。
鬼の柴田も行った刀狩
「鬼の柴田」はかつて織田信長に仕えて織田家の筆頭家老となった柴田勝家のあだ名です。
柴田勝家は一揆、反乱を未然に防ぎつつ、自分の味方となる寺社や領民が扱う兵器を確保するために刀狩を行いました。
具体的にいうと、まず一揆を企てるおそれがある人々や過去に一揆をおこした実績のある寺社に対して刀狩をおこないました。
そして、その刀狩によって手に入れた武器を身内の組織や団体へ配ったのです。
つまり、柴田勝家が行った刀狩は、脅威となる恐れがある組織・団体から刀狩をして武器を取り上げ、味方につくだろうと確信する組織・団体へ刀狩で得た兵器を補填するという一石二鳥の政策でした。
豊臣秀吉の刀狩令は無謀だった
上記のように豊臣秀吉以外にも刀狩をした偉人はいるのにも関わらず、教科書で習う刀狩は豊臣秀吉の行った刀狩令のみです。
それはなぜだと思いますか?
その理由は豊臣秀吉の行った刀狩令が歴史上はじめて、全国の庶民を対象とする大規模な刀狩だったからです。
豊臣秀吉の行った刀狩は兵農分離を進めるためにとられた措置です。
兵農分離というのは、当時の戦闘方式からして完結することは不可能でした。
というのも戦がおこった場合には、ひとりの武士に対して馬の世話をする者、兵器や食料を持ち運ぶ係など、補給の人員が必要であり、とてもじゃないが武士だけでは人手が足りませんでした。
このことから必然的に農民や庶民も戦に参加する必要がまだあったのです。
さらに当時、臨時的な戦には鍛冶屋や修験者などの職人や、祈祷師なんかも参戦していました。
村の中では偉い人に分類される庄屋さんも戦場に赴いていました。
庄屋さんが参戦するということは、当然庄屋さんの家で奉公をする下人という奴隷のような身分の人も参加していたということになります。
このように当時は村人総出で戦に参加していたのです。
伊達家に伝わる刀狩以前の戦闘員に関する詳しい記録
伊達政宗が戦をする際にどのように人員を集めたのかを読み取れる史料があります。
その資料には、以下のような内容が書かれていました。
- 軍隊に占める兵士の多くは農民の男たちであった
- 「戦をするぞ」という号令がかかると、その農民たちは農民から「野伏(のぶせ)」という臨時の武士へ変身した
- 野伏の対象となった農民は下が15~16歳、上が60~65歳までの農民たち
- 野伏となる農民たちは健康状態も記録されていて、いざというときに誰から優先的に戦に駆り出されるかが決められていた
豊臣秀吉の刀狩令は下人のチャンスを奪った
先も書いたように下人という身分の者も戦に駆り出されることがありました。
いや、というよりも近くで戦があるとわかれば下人たちは喜び勇んで参戦することを希望しました。
臨時収入が得られるので、庶民たちは戦に自ら志願して参加していたのです。
しかし、村の中では上位に位置する庄屋レベルの者たちは戦に参戦することをあまり好ましく思っていませんでした。
なぜかというと、庄屋さんが戦に行っているスキをついて雇っている下人が逃げてしまったり、戦に参加した下人がそのまま帰ってこない(参戦したフリをして逃げた)ということもしばしばありました。
庄屋さんは自分の土地を守るために必死に戦います。
しかし、下人にとってはどさくさに紛れて奴隷のような身分から解放されるチャンスでもあったので、主人の庄屋さんが討死することを願う者も多かったそうです。
刀狩令を出すことによって、少なからず庶民や農民、下人が戦に参戦する機会は減ったはずです。
下人にとっては戦に参加する機会が減ったことによって、臨時収入を得たり、主人から脱走する等のチャンスを奪われてしまいました。
豊臣秀吉が刀狩をしようとしたキッカケ
攻城戦では「城下に火を放ち、農民たちを城に避難させたまま餓死させて城を陥落させる」という手法が頻繁に用いられました。
かなり残酷に思えるのですが当時は明確な農民と戦闘員の境界がなかったので、攻めている側からしても農民を放置しておくことは後々に野伏として戦闘員にクラスチェンジしたり、ゲリラ戦に持ち込まれるかも知れないという不安がありました。
このような状態が続くのは武士にも農民にも不利益であると考えたのが豊臣秀吉です。
また、自分のように農民の出身者が成り上がることを嫌がったからであるとも言われています。
天下統一を目指した豊臣秀吉は武装したときの農民の怖さを十分に理解していたから、無謀と思われた刀狩令を強行するに至りました。
豊臣秀吉の刀狩のせいで露頭に迷った人々
選ばれたエリートを除き、多くの足軽や野伏といった武士の底辺層にいた武士たちは刀狩のせいで戦に参加することができなくなり、田舎に帰るか他に兵士として雇ってくれるところを探す「浪人」になるかの究極の2択を迫られました。
浪人という言葉をもう少しかみ砕くとしたら、職を失った失業者や転職先を探す転活中の労働者のことを言います。
もっとも、当時の低い生産性の農業では、次男以下に農業を継がせるだけの農耕地がなかったので、兵士になった者がほとんど。
そんな状況なのに、兵士の道を閉ざされた多くの人々は故郷に帰っても農業につくことができず、結局大半の人々が路頭に迷うはめになりました。
なぜ、大坂の陣の際に大阪城へ10万人の浪人たちが兵士として集まってきたのかというと、その根本原因が豊臣秀吉が刀狩を行って彼らをクビにしてしまったせいです。
それにも関わらず、一時は自分たちの脅威となった御家を「豊臣家のためにっ」と奮戦して命を次々と散らせていくのですから、なんとも痛ましい光景です。
大坂の陣とはは、江戸幕府(徳川家康)と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。この戦いで豊臣家が敗れ、徳川家康が天下を統一することになる
まとめ
豊臣秀吉が行った刀狩の効果は落ち武者狩りや寺院・領民の反乱を防ぐのに成功したことです。
さらに、武士と農民の明確な境目(兵農分離)ができたことで戦乱に巻き込まれる農民たちは少なくなり、農業の生産量も改善されました。
しかしその後、職を失った人々が続出し、下人たちは夢見ていた奴隷からの解放を諦めざるをえなくなりました。
そして最後に、豊臣氏滅亡の戦である大阪の陣にはかつて刀狩の悪影響を受けた人々が大勢味方してたいそう憐れな惨劇を演じました。
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