1990年代、PCやファミリーコンピュータで人気を博したゲームがありました。
そのゲームは「街をつくる」というコンセプトの都市開発シュミュレーションゲームで、キーボードによる操作が主流だったPCのものがアクションゲームと違って遊びやすいことから流行しました。
そのゲームでは王様や殿様になったような感覚で、町を自由に作ることができます。
戦国大名たちも領内の経営を安定させるために分国法を制定し、それをもとにして自国に住む農家や商人、武士たちを自分の管理下におきました。
そして、自国の人々が住みやすい国、戦争が強い国となるために城郭と城下町の整備を行いました。
今回はそんな戦国大名の街づくりについて見ていきましょう。
1990年代に人気を集めたシュミュレーションゲーム
1990年代、PCやファミリーコンピュータで人気を博したゲームがありました。
そのゲームは「街をつくる」というコンセプトの都市開発シュミュレーションゲームで、キーボードによる操作が主流だったPCのものがアクションゲームと違って遊びやすいことから流行しました。
そのゲームではあたかも自分が王様や殿様になったような感覚で、町を自由に作ることができます。
戦国大名たちもおそらくゲームよりはいろいろな制約があって難しいこともあったのでしょうけれど、自分の領内に城郭や城下町を整備して、より豊かに、より領民が住みやすい町づくりを目指しました。
さらに分国法と呼ばれる法律を制定して自国に住む領民や家臣を管理下に置きました。
戦国大名統治下で居住する人々
戦国大名の統治下で生活を送っていた人々はさまざまいます。
農民、商人、職人などの庶民や僧侶のような聖職者、国人や地侍、京都から派遣されてきた経緯をもつ武士などです。
職業が皆ことなるので、職場も異なります。
出退勤や住人を管理する関係から同業者を固定した場所に住まわせたり、有事の際にすぐに家臣たちが駆け付けられるように、武家屋敷を城の間近に固めるようにして町を作りました。
農民が居住した田畑や半治(はんじ)
田畑は戦国時代の経済基盤であり、大名は新田開発を行う、治水工事をして農業用上下水道を公共事業として行うようにして農業を発展させました。
当時は租税を税金ではなく、お米や野菜、お肉、魚などの食べ物で徴収していたので、第一次産業の開発と維持は必要不可欠でした。
農民は収穫した農作物や家畜、狩猟や漁獲によって得たものを年貢として大名に納めました。
半治は国境の境に該当する地域です。
当時は山や川、谷などの天然な地形を国境として定めており、明確な国境がありませんでした。
そのため、国境地帯周辺に住む農民たちは年貢半分ずつ双方の国に納めていました。
「ふたつの国に納税するくらいならことなら引っ越せばいいのに」と感じた方もいるでしょうが、農業用の機械がない当時は田畑を新規開拓するのは大変なことで、別の場所へ移住するよりも今ある田畑の土や農作物を改良して生産性を向上させたほうが、よっぽど効果的でした。
寺町
城下町の外側には寺院が集められており、僧侶などの聖職者が居住しました。
石垣や堀、塀などが築かれていて外敵が侵入しずらくなっており、建物の造りはとても強かったので地震や戦争が起きた際に庶民が避難する場所として活用されたこともありました。
町屋と職人住居群
城下町の外側には町人の住む町が設置されました。
日常生活でしようする日用品や食料などが町やで販売されていました。同じく、城下町の外側には、刀鍛冶、鉄砲鍛冶、弓師など武具を製造する職人や寺や城の建設作業に携わる左官や番匠、石垣職人、建築士などを大名が保護して特定の場所に居住させました。
町人とは違い、職人は大名から年俸を受給する一方で個人からの依頼があれば臨時収入を得て生活していました。
市場
常設の市場が設けられていて、行商人や農民、漁師などが自由に販売することができました。
常設市が立つ場合はなぜか「8」のつく日が多く、毎月8・18・28日に市場が立っていました。
その名残からか八日町、十八日町、廿八日町と日にちがつく全国的に多くあります。
私の故郷である八戸市にも八日町、十八日町という地名は残っており調べてみると南部家の管轄で、毎月その日にちに市が開催されていたことからその地名がつけられたとされています。
武家屋敷集約地域
城郭の三の丸やその外側に家臣たちが居住する屋敷を設けました。
まるまる武家屋敷に住むことのできる武士は地位の高い武士のみで、その中でも下級となると屋敷の何部屋かを間借りして居住するようになっていました。
さらに身分が低いと豊臣秀吉や蜂須賀小六のように農民と同じような土地で生活したり、町人の住む町屋の一角に平屋を建てるなどして生活しました。
城(本丸)と二の丸
その国主によって本丸に住むのか二の丸に住むのかは異なりますが、どちらも城主の居住する屋敷が置かれるケースのある場所です。
二の丸は面積を狭くして戦時の際に防衛の要となる施設を置いたり、家臣たちが常駐する詰め所を立てる場合もありました。
そして二の丸には食糧庫や武器庫となる蔵が建てられました。
本丸は城主の権威の象徴であり、最後の防衛施設として櫓や天守閣などが建てられました。
二の丸に城主の屋敷を建てない場合は本丸内に母屋を建て、城主とその家族はそこで生活しました。
また、本丸は家臣たちの主な職場となる場所で、大河ドラマで見られる家臣と城主が議論を交わす間や政務をとる場所はだいたい本丸内の一部です。
まとめ
戦国大名たちは自分の統治下におく人々の職業やありとあらゆる状況を想定して、よりよい町づくりを行いました。
我々がゲームでのほほんと自由気ままにしていた町づくりとは異なり、シビアにかつ計画的な町づくりを行っていたことが本記事でお分かりいただけたかと思います。
現存する八日町や鍛冶町、○○丸といった地名はその名残と言えるでしょう。
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