江戸時代にデジタルな測量器材を一切使用せずに日本地図を制作した男がいます。
その人物の名は伊能忠敬(いのうただたか)。
伊能忠敬は50歳から測量と天文学を学び、17年の歳月をかけて己の足と目だけで日本地図を制作したまさに第2の人生を開花させたレジェンドです。
本記事ではそんな伊能忠敬の人生と、日本地図を制作した測量方法について解説します。
伊能忠敬の半生
伊能忠敬は現代でいうところの千葉県で生を受けます。
そして17歳のときに酒造業を営む伊能家へ婿入りし、ミチさんという3歳年上の女性と結婚しました。
伊能家は酒造業の傍ら、米や薪、鯨油などの燃料の問屋業の他、金融業や水運業にまで手を伸ばしていた大店でした。
しかし、伊能家はミチさんの父親がすぐに亡くなってしまい、長い間当主不在の時期が続いたため事業を縮小せざるをえなった他、ライバル店に業績を越されてしまい、経営は傾きかけていました。
伊能忠敬は赤字経営だった伊能家を23歳のときには現在の価値にして3000万円の黒字へ回復させました。
また、伊能忠敬がまだ店主として働いていたとき、天災の影響で大飢饉が起こりました。
そんな中、伊能忠敬は惜しみもなく、蔵を開放して地域に住む人々へ食料を配ったので地元では大変支持の厚い名士でした。
伊能忠敬引退とともに上京する
伊能忠敬は49歳の時、長男に店を預けて商売から身を引きます。
そして少年時代からの夢だった天文、暦学を修めるために単身で江戸に上京しました。
このとき、当時30歳だった暦学者の高橋至時(たかはしよしとき)に弟子入りし、天文、暦、測量、天体観測を学びます。
伊能忠敬は研究熱心な学生だったようで、寝る間も惜しんで測量と天体観測の勉強に勤しみました。
19歳年下の師匠の高橋至時に礼を欠くことなく、また高橋至時も伊能忠敬のことを「推歩先生」と呼んで敬意を表していました。
推歩とは暦学のことです。
ちなみにこのときから伊能忠敬は距離を計測するときはすべて歩数で計算していたそうです。
伊能忠敬の日本地図制作に欠かせないのは常に同じ歩幅で歩くこと
伊能忠敬は高橋至時に学んでいるときから私的に実験を繰り返していました。
その中で最初に行ったとされるのが『常に同じ歩幅で歩く訓練』です。
伊能忠敬は常に歩幅を約70センチで歩く訓練をし、江戸中を歩いて方々の正確な距離を割り出しました。
そしてそれが後々、日本地図の制作に大きく関わることになります。
日本地図は伊能忠敬の研究の副産物だった!?
伊能忠敬は実は日本地図を作る目的で日本中を歩いていたわけではありません。
日本地図の作成はあくまでついでの事業であり、伊能忠敬が本来目標としていたのは「地球の直径を測る」ことでした。
地球の直径を求める過程で正確な日本地図を作ることが必要だという結論に至り、日本地図の作成に取り掛かったのです。
伊能忠敬一行の蝦夷地(えぞち)の測量
伊能忠敬は私財を投じて当時最先端だった測量器材を買い集め、第1回目の測量の地に選んだのは現在の北海道である蝦夷地(えぞち)でした。
伊能忠敬は息子、弟子2人、下男2人、器材を運搬する人足2人、馬2頭で蝦夷地へ向かいました。
伊能忠敬に同行した弟子の中には後に半島だと考えられていた樺太(サハリン)を測量して独立した島であることを解明した間宮林蔵(まみやりんぞう)もいました。
伊能忠敬は息子や弟子たちにもあらかじめ約70センチの歩幅で歩けるように訓練しておき、同じ道を複数人で歩き歩数の平均値をとり距離を計算しました。
蝦夷地の測量で伊能忠敬は1日40Kmペースで歩き、滞在期間117日で北海道を一周して江戸へ帰ったというので、その脚力には驚かされます。
しかもこのとき伊能忠敬は御年55歳。
帰宅後は3週間かけて測量の情報を集計し、蝦夷地の地図を完成させました。
3年かかった東日本の測量
蝦夷地の測量からしばらくして伊能忠敬は再び息子と弟子を引き連れて今度は東日本の測量へ向かいました。
蝦夷地の測量で得た反省を踏まえ、より良い測量方法と投影方法の研究をし、今度は歩数ではなく1間(約180センチ)ごとに目印をつけた縄(間縄)を使用する方法に変更しました。
これにより測量は楽になったかと言うと、そうではありません。
効率よく測量をすることができましたが、海岸線には入り組んだ地形が多くあったり、時には断崖絶壁に間縄を渡すこともありました。
東日本全体の測量に要した期間は約3年間。
蝦夷地を測量したときよりも膨大になった測量情報を集計して東日本の地図を制作しました。
伊能忠敬は地球の直径をほぼ正確にはじき出す
伊能忠敬は東日本の地図を完成させた後すぐに師匠の高橋至時に見せに行き、どれだけ自分が正確なものを作ることができたのかを見極めてもらいました。
すると師匠の高橋至時も「まさか、ここまでできるなんて思わなかった」と驚きの声を漏らしました。
そして伊能忠敬が測量情報をもとに算出した地球の直径は約4万キロ。
当時最先端だった蘭学(オランダの学問)の天文学の本にある数値と伊能忠敬が算出した数値は一致していました。
その事実が判明したとき、伊能忠敬と高橋至時は二人で抱き合って大喜びしたそうです。
また、伊能忠敬が当時算出した地球の直径は、現在判明している地球の直径の長さから1/1000しか誤差がありません。
当時の技術力を考えるとこれはとんでもないことです。
伊能忠敬の日本地図は幕府の目にも止まる
東日本の地図を制作したことで伊能忠敬の名前と地図はたちまち有名になり、江戸幕府の目にも止まることになります。
伊能忠敬は幕府に招かれて、日本地図を持参します。
当時は正確な地図のなかった時代でしたので、江戸幕府は諸藩の位置を把握し、外敵に備えるためにも正確な日本地図が喉から手がでるほど欲しがっていました。
日本地図を作ろうにも誰にやらせたらよいのかもわからない状況だったので、伊能忠敬の存在はまさに渡りに舟でした。
幕府は伊能忠敬に「西日本の地図も作れ」と日本地図全図の制作とついでに薩摩藩の動向を調査することを命じました。
その代わり、伊能忠敬には将軍から直々に武士の身分が与えられ、帯刀することを許されました。
伊能忠敬西日本の地図製作を開始
西日本の地図制作を命じられたとき、伊能忠敬は既に老体により身体が思うように動かなくなっていました。
それでも幕府の期待に応えんがため、60歳を過ぎる老体にムチ打ち測量を開始します。
老体により思うように測量をすることができず、蝦夷地や東日本を測量したときよりも日数をかけゆっくりと測量しました。
また、東日本までの地図制作は自腹で行っていましたが、西日本の測量は幕府から測量にかかる費用や人手が手配されたのでそれもゆっくり測量できた要因です。
伊能忠敬が江戸に帰ったのは幕府から命令されてから10年経った後。
その頃には伊能忠敬は病気がちな身体になってしまっていて、測量情報の集計や地図の投影作業ができなくなってしまいました。
伊能忠敬は布団の中でありながらも的確な指示を弟子たちに出しつつ、日本地図制作を監督しました。
しかし、病魔は刻一刻と伊能忠敬の身体を蝕んでいき、伊能忠敬は日本地図の全体像を見る前に74歳で死去しました。
伊能忠敬の死からしばらくして、弟子たちの手により日本地図は完成されました。
伊能忠敬が55歳で蝦夷地の測量を開始したときからすでに17年の歳月が経っていました。
まとめ
伊能忠敬によって制作された日本地図は複数人に同じ道を歩かせて歩数の平均値から距離を割り出す歩測という方法と1間(約180センチ)ごとに目印のついた縄(間縄)を使う方法で測量されました。
また、伊能忠敬の制作した地図はデジタルな測量器材や人工衛星に引けを取らず、約350年前に作られたものとは思えないほど精巧なものです。
地理の専門家が人口衛星を利用して作成した日本地図と伊能忠敬が測量して制作した日本地図を比較すると北海道、九州の大きさが少し異なるだけで本州、四国はほぼぴったり一致したと報告しています。
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