伊達政宗といえば派手好きな武将であることで有名です。
さらに伊達政宗の派手さは彼に仕える家臣たちにも伝染していきます。
本記事では派手好きな伊達政宗と派手な伊達軍の装いについて解説します。
伊達政宗の派手好きは父祖ゆずり!

伊達政宗はファッションの派手さ、そして派手な行動をしていたことで、オシャレな人や派手な恰好の人を表す「伊達者」、「伊達男」などの語源となったと言われています。
この伊達政宗の派手好きは先祖代々続く伊達家の伝統だったのです。
室町幕府三代将軍の足利義満政権だったときのことです。
奥羽からわざわざ伊達持宗という地侍が京都へ訪れ、派手な土産を持参して将軍にお目通りを願いました。
そしてこのとき持参された派手な土産というのが、以下に示す品々です。
将軍への贈り物
- 名馬20頭
- 砂金100両(現在価値1000万円)
将軍の母や妻、幕府の重臣たちへの贈り物(総計)
- 馬95頭
- 刀28振
- 砂金380両(現在価値3800万円)
- その他みちのくの名産品
先に示した伊達持宗という男。
この男こそが奥州の王、伊達政宗の先祖にあたる人物です。
伊達氏はそれ以来、将軍が代替わりする度に上記と同等レベルの派手な贈り物を繰り返しました。
何度も行われたので、京都では伊達といえば派手の代名詞で使われるようになりました。
派手なファッションで戦場を駆け巡った伊達政宗
伊達政宗の派手なファッションは日常で着用される小袖や裃、直垂にとどまらず陣羽織にまで取り入れられました。
まずは陣羽織に注目してみます。
陣羽織とは、軍団を指揮する者が甲冑の上に着用する羽織のことを指します。
誰でも着られるものではなく、陣羽織を着ているということは大将や侍頭のトレードマークでもありました。
そして伊達政宗が奥州征伐の際に着用していた陣羽織が紫羅背板地五色乱星同陣羽織(むらさきじらせいたごしょくらんせい)です。

紫羅背板地五色乱星同陣羽織
これは紫色の下地の背面に伊達家の家紋が金色で刺繍されていて、赤・黄・緑・白・青の水玉に金色の縁取りをした星と呼ばれる模様が裾から袖の下半分までに散りばめられている陣羽織です。
水玉模様も細かすぎず荒すぎないちょうどよい配置で、さらにひとつひとつの水玉の大きさや家紋を強調するために水玉の配置を谷状に散りばめるなど、こだわりをもって作られた逸品です。
また、黒地にまるで千代紙のように牡丹や菊の模様を刺繍した大きな襟がついたものもあり、その赤と金がよく映えるコントラストで描かれた襟は、その柄を強調するためにわざと固めの生地を使用して、太めに開くように作られていました。
朝鮮出兵の際にも陣羽織を新調

黒羅紗地裾緋羅紗山形陣羽織
朝鮮出兵の際に着用していたのが黒羅紗地裾緋羅紗山形陣羽織(くろらしゃじすそひらしゃやまがたじんばおり)と呼ばれるものです。
こちらの陣羽織は黒地に金のボーダーを放射状にあしらい、また裾は朱色の山形模様がギザギザと飾られるものです。
その斬新な模様は遠くからでもすぐに伊達政宗であることがわかるようになっていました。
その上、下衣として身に着けた袴は青地に伊達家の家紋を水玉模様のように金色であしらわれていて、キラキラと光って見えたそうです。
伊達政宗は甲冑だって派手なこだわりを忘れない
次に伊達政宗が愛用した甲冑に注目しましょう。
伊達政宗が愛用した甲冑はその名も黒漆五枚胴具足(こくしつごまいどうぐそく)といいます。

黒漆五枚胴具足
その甲冑は五枚の鉄板を蝶番で留め、その上から黒の漆を何層にも塗って固められた鎧です。
帷子と腰蓑には金色の縁取りが施されていて、高級感のある印象を与える色合いをしています。
さらに帯留めなどに使われる紐はすべて紺色で統一されていて、シックでスタイリッシュな鎧です。
後に仙台藩の武士たちが、伊達政宗所蔵の黒漆五枚胴具足を真似て同じ構造をした胴を作ったので、黒漆五枚胴具足のように五枚の板を縦にならべて作られた胴のことを仙台胴と呼ぶようになったそうです。
シンプルなのになぜか派手に見える弦月前立て

伊達政宗の所有していた兜といえば、上記の黒漆五枚胴具足(こくしつごまいどうぐそく)と合わせて黒を基調とした鉄鉢に大きな三日月型の金の前立てをイメージするでしょう。
その兜、シンプルながらアシンメトリック(左右非対称)の大きな三日月が取りつけられていて、前立ての左上部が突出していてかなり派手です。
その突出具合といったら、伊達政宗の左に並ぼうものなら三日月の先が顔に刺さってしまうのではないかと思わせるほどのもの。
そして半月や満月ではなく、あえて弓がしなっているように見える弦月を採用しているというところも派手さを強調しているところです。
さらに顔を保護するために着用する装面には、鼻の下と頬から顎にかけて赤い髭が埋め込まれていました。
通常は白や茶色などの髭を埋め込むのに対し、さすがの派手好きといったところでしょうか。
赤を採用したことで、より際立って見えます。
この兜に使われた弦月の前立て、伊達政宗のセンスかと思いきやこのデザインを考案したのは伊達政宗の父・輝宗で、伊達政宗の旗印を太陽、兜に月を採用することで陰陽五行説の陰と陽を組み合わせてその力を息子に与えようとしたと伝えられています。
主が派手なら部下も派手、伊達政宗に仕える家臣や足軽の装い
伊達政宗が朝鮮出兵への出撃命令を下知されたときのことです。
伊達政宗は上記で紹介した黒漆五枚胴具足の上に黒羅紗地裾緋羅紗山形陣羽織を纏って行軍しました。
その後ろに控える家臣たちの中で、ひときわ目立つ派手な塊がありました。
それは伊達政宗に仕える足軽たちです。
当時は足軽の具足や武器は大名が用意するものだったので、大量生産することを目的に通常は簡素なつくりのものを配給します。
ところが、伊達政宗という大名は違っていました。
足軽が着用する具足や陣笠にもこだわりを持ってデザインし、特注して派手に作らせたのです。
伊達政宗の後ろが徒歩で行軍していた足軽たちの装いはというと、その長さ約1メートルもあると言われた尖り陣笠を金色に塗りかため、黒漆を塗った具足の胴には左胸と背中の右側に金の星マークがワンポイントとしてつけられていました。
さらに京都の人々の目を奪ったものがあります。
それは伊達政宗と伊達政宗に仕える家臣たちが騎乗する馬です。
馬に乗るときは馬鞍を装着するのですが、馬体の保護や防水処置のために動物の毛皮が敷かれます。
伊達政宗が自分の馬と家臣の馬に装着させた動物の毛皮はなんと虎や豹、熊といった猛獣のものでした。
その装いの派手さは豊臣政権に仕える大名家の中でも抜群だったそうで、京都の庶民や町人たちは「さすが伊達政宗と奥羽の武士はやることが派手さは期待を裏切らない」と口々に言い、一時はその話題で持ち切りでした。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
伊達政宗の派手好きは先祖代々続く伝統がもとになっていたのです。
そして伊達政宗自身は派手で斬新なデザインの陣羽織と甲冑、弦月の前立ての兜をかぶり戦場へ出陣し、《派手=伊達政宗》というイメージを定着させました。
イメージだけでなく実際にいろいろと派手だったわけですが、伊達政宗の派手さは本人だけに留まらず、伊達政宗の家臣たちにも伝染していたようです。
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