「日本陸軍は日露戦争と変わらぬ兵器でアメリカ軍に立ち向かった」というのが、昔NHKの特集番組で放送された言葉です。
おそらく今でもこういったイメージはあるでしょう。
日本陸軍と言えば「精神力が全てに勝るのだ!!抜刀して白兵突撃すればいいのである!!」と言っていそうなイメージがあります。
ある意味そのイメージは正しくもあるのですが、本質的には誤解です。
そして、白兵突撃が旧式な戦法であるという認識もまた違います。
白兵突撃は近代戦でも、実施されることがある非常に重要な戦法です。
本当に大日本帝国陸軍は白兵突撃しかない旧式な軍隊だったのでしょうか?
その辺を考察してみます。
第一世界大戦の産んだ機関銃への衝撃
まず、日本陸軍に限らず、第一次世界大戦で世界中の陸軍は衝撃を受けます。
機関銃を備え付けた陣地に対し、まともな攻撃を仕掛けると死屍累々で、どうにもならないという事実です。
とにかく、機関銃という兵器は戦場の光景を全く変えてしまいました。
ジョン・エリスにより名著「機関銃の社会史」という本が書かれるくらいです。
同書によりますと第一次世界大戦の戦死者の90%近くが機関銃によるものといわれています。
戦闘群作戦と火力重視
第一次世界大戦の大量死する戦場、総力戦の現場を日本陸軍は経験しなかったため、戦訓とできなかったという主張もあります。
しかし、機関銃に関しても総力戦に関しても日本がすでに日露戦争で経験していたといえるのです。
そもそも第一次世界大戦は陸上戦闘においては、日露戦争の拡大版です。
ですので、日本陸軍は戦場から遠くにいながらも、観戦武官からの情報で、最新の軍事情報を把握していきます。
しかし、それは日本陸軍をある種絶望させるようなものでした。
総力戦国家創りを目指した「統制経済」
まず、日本陸軍は考えます。
第一次世界大戦のような総力戦にどう対処するのかです。
これは日本の砲弾生産力の1年分をたった1回の戦闘で消耗してしまうような戦闘に対し、どうするか?という回答を出す必要がありました。
ひとつの回答は、日本の国家改造です。
総力戦可能な国家を作ることです。
これは、永田鉄山、石原莞爾などの中に生じ、統制派という派閥の中の考えの中に色濃く残ります。
戦前の日本が実施した「統制経済」という、国家主導で生産の役割を管理、統制する経済は、そもそも総力戦可能な国家を作るためでした。
特に計画経済で、その力をつけてきている仮想敵国・ソ連に対抗するため、ある意味そのやり方を真似てみたものです。
各企業が自由に競争するのは効率的ではなく、国家が生産を統制した方が、経済は上手くいくと考えたわけです。
これらの作戦、計画は結果として一部の例外を除き失敗します。
日本陸軍の戦い方の変化
日本陸軍はそう簡単に、日本軍が潤沢な火力援護を受け、戦闘を出来るとも考えてはいませんでした。
そう簡単に国家の生産力が変化しないだろうというリアルな感覚をもっていたのです。
しかし、旧態依然の陸軍では、世界の趨勢からおいていかれることは必至です。
そこで日本陸軍は第一次世界大戦後期に取り入れられた「戦闘群作戦」という戦法を取り入れます。
これは、比較的火力支援を受けなくとも、実施可能な戦法でした。
軍隊の組織は、師団、旅団、連隊、大隊、中隊、小隊、分隊というような、構造になっています。
その編成は国によって、多少は違いますが大まかな階層的な構造はこのようなものです。
「戦闘群作戦」とは、分隊に「敵の目標○○を攻略しろ」という大まかな命令を与え、その侵攻ルートなどは、個々の分隊、つまり「戦闘群」の自由にしたのです。
分隊とは小隊を構成する一番小さな戦闘組織で、下士官が率いる15人くらいの集団です。
錬度の高い下士官、兵がいれば可能な戦法です。
そして、そのための必要な火力は「軽機関銃」です。
分隊は「軽機関銃」という移動可能な機関銃による火力支援を受けながら、敵陣を突破する行動をします。
複数の戦闘群がこのように行動することで、いずれかの分隊が、陣地の後方に「浸透」します。
このような動きをとるため「浸透戦術」とも呼ばれる戦法でもあります。
陣地の弱点を見つけ出しどんどん突破口を開いていき、敵陣地を制圧するという戦法です。
これは第一次世界大戦後期に生まれた、当時世界最先端の戦法でした。
火力充実に動く日本陸軍
日本軍は第一次世界大戦が終了すると、分隊用の火器である軽機関銃を整備します。
初期の国産品である「11年式軽機関銃」は、故障も多く問題の多い機銃でしたが、「96式軽機関銃」、そしてそれを7.7見口径の弾丸ように改造したといえる「99式軽機関銃」が分隊に配備されていきます。
これらの軽機関銃は十分に、日米戦でも威力を発揮するのです。
ただ、その価格はかなり高価であり、分隊全てに行き渡らせることはできませんでした。
そこでそれを補完するため、重擲弾筒装備の分隊が組み合わされます。
これは小型の迫撃砲ともいえる兵器です。
「89式銃擲弾筒」などはかなり優秀な兵器といっていいでしょう。
至近の戦闘距離で、この銃擲弾筒を一斉射撃した瞬間の投射火力量は、アメリカ軍をも凌ぐレベルにありました。
日本陸軍はこのような編成の中で、満州事変、シナ事変を戦い、「火力重視」という戦訓を積み上げていくのです。
火力支援を受けた突撃は世界共通
そもそも、歩兵が敵陣を攻略するため白兵突撃するのは、日本軍の専売特許ではありません。
日米戦でも、アメリカ軍は白兵突撃を敢行しています。
特に沖縄戦での「シュガーローフの戦い」という小山を巡る争奪戦では、アメリカ軍も何度も白兵突撃を敢行しています。
火力支援を受けながらの歩兵の白兵突撃は、普通の戦法であり時代遅れではなかったのです。
ただ、日本軍が相手としたアメリカ軍があまりにも常識はずれな強敵であったため、時代遅れに見えてしまうのです。
アメリカ軍の突撃破砕射撃
機銃陣地を浸透突破するために生まれた「戦闘群作戦」は別に旧式でもなんでもありません。
ただ、ガダルカナルの戦いでの結果があまりにもひどく、日本陸軍のイメージを作ってしまった面もあります。
ただ、ガダルカナルの戦いでの日本軍の戦法は一定の合理性の元において行われたものであり、思考放棄の絶望的な突撃でなかったのです。
ただ、相手の準備がそれ以上あったため、惨劇となりました。
アメリカ軍は、「突撃破砕射撃」という方法で日本軍を迎え撃ちます。
これは、機銃弾を空間にぶちまけるというような戦法です。
機銃と迫撃砲の砲弾で、空間の弾丸密度を上げて、敵の浸透をさせないという戦法です。
圧倒的な火力、補給力が無ければできない方法ですが、アメリカ軍はそれを実施します。
日本軍は密林を利用した500メートルまでの接近を行ってからの突撃を想定します。
これは、合理性があり、これだけの近距離になれば、野砲などの大型の大砲の支援は同士討ちの危険があり使用できなくなります。
密林により、日本軍は、敵の大型砲の攻撃を封じこみます。
しかし、待っていたのは空間ごと切り刻むような突撃破砕射撃の洗礼でした。
戦闘群作戦など取る余裕もなかったのです。
決して時代遅れではなかった日本陸軍
日本陸軍は日米戦では島嶼戦という戦前は全く想定していなかった戦場で戦うことになります。
そもそも、日本陸軍は「対ソ連用」の軍隊だったのです。
そのために編成され、兵器の設計も運用も訓練も行われたのです。
それでも、アメリカ軍を苦戦させ、しぶとく戦いました。
その主武器となったのは、分隊用に整備された軽機関銃でした。
そしてアメリカ軍が舌を巻いた陣地構築技術、武器の隠ぺいなどの方法でした。
日本陸軍は欠点の多い組織でした。
しかし、決して「学ばない軍隊」でもなければ「弱い軍隊」でも無かったのです。
無謀な白兵突撃というイメージは降伏の代替え手段として行われた「バンザイ突撃」のイメージが強すぎるのかもしれません。
日本陸軍は、日本という国家の限界の中で近代化、出来うる限りの火力化を目指した組織であったといえます。
もし、日本陸軍に十分な火力が無かったとすれば、それは大日本帝国の限界であったのだと言えるでしょう。
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