江戸幕府の謀反対策!徳川家は江戸幕府の謀反対策をどのように行ったか?







江戸幕府初代将軍徳川家康(とくがわいえやす)が江戸幕府を開いた当初はまだ豊臣家の味方について徳川家康と争った大名もおり、将軍であっても命を狙われる可能性が十分にありました。

そのため、徳川家康を始めとする江戸幕府将軍家は、元豊臣方の大名が謀反を起こさないようにあらかじめ手を打っておくことが開幕当初の最重要課題でした。

 

本記事では、江戸幕府に対する謀反を未然に防ぐために徳川家が行った対策を説明します。

 

江戸幕府将軍に仕える幕臣の大名には元敵が多数いた

徳川家康

江戸幕府初代将軍徳川家康が大坂冬・夏の陣で豊臣秀頼(とよとみひでより)を討ち、大義名分のもと江戸幕府を開いた時、自身に仕える大名の中にはついこの間まで敵だった大名が多く含まれていました。

徳川家康は江戸幕府に仕える幕臣は全員もともと自身に仕えていた旗本の大名だけにしたかったはずですが、関ケ原の戦いや大坂冬・夏の陣で自分の味方に付いて戦ってくれた大名への約束や恩義があり、不本意ながらもともと敵方にいた大名であっても重用せざるを得ない状況にありました。

 

このような状況の中で徳川家康はたとえ自分の娘の婿であっても元豊臣の家臣だった大名たちを信用することは生涯ありませんでした。

徳川家康は常に元豊臣方の大名が江戸幕府に対して反旗を翻すかもしれないという危機感をもって晩年まで生きたのです。

 

江戸幕府に対する謀反対策はとにかく大名の経済力(軍事力)を削ぐ!

徳川家康は江戸幕府開幕当初から「元豊臣方の大名からの謀反」に対してどのような対策を行うべきかを考えていました。

この謀反対策というのは江戸幕府にとって最重要課題のひとつでした。

 

そしてある時このようなアイディアを思いつきます。

「そうだ、大名たちに散財させて軍事費を削ってやろう。軍事費がなければ謀反を起こす余力もなくなるだろう」。

この考えのもと、最初に行った幕臣たちの謀反対策が江戸城の増改築です。

 

徳川家康は「江戸幕府将軍家の居城、江戸城をより堅固で壮大なものとすることは幕臣の務めである」と都合のよい命令を発令して全国各地の藩に江戸城の増改築をすることを義務化しました。

 

現在の皇居を囲む石垣や隅田川沿いの外堀にある石でできた堤は徳川家康が全国の大名に命じて作らせたものです。そしてその姿は当時のままです。

その石垣に注目すると文字や記号などがマークされているものが散見されます。

それは、当時の藩主たちが資材を他の藩に間違われたり盗まれたりすることを防ぐために刻ませたもので、江戸城の増改築時には石や土砂、木材などの建築資材はすべて各藩が自国から持ち込み、工事に携わる大工や石工職人の給料や滞在費などもすべて各藩が負担しました。

 

次なる江戸幕府への謀反対策!築城で散財させる

姫路城

徳川家康が命じて各藩に費用のすべてを負担させた江戸城の増改築が行われても、貿易や特産物の売上がよく、まだまだ財力に余裕のある藩が多くいました。

 

徳川家康の娘の婿となった姫路城城主の池田氏もその一人でしたが、そのような大名たちの財力を削ぎ落さんがため、徳川家康は以下のような命令を発令します。

「江戸幕府に仕える幕臣は公家や僧俗に高をくくられてはならない。その権威を主張するため藩の中心となる藩主の居城をできる限り壮麗にすべし」。

 

徳川家康が各藩に対して発した築城や改築の奨励は意外にも高評価で、当時の藩主は惜しみなく築城と改築に財産を投じ城をより強固なものへとしました。

そのよい例が池田氏が増改築した姫路城加藤氏が築城した熊本城です。

どちらも元豊臣方の大名でしたので、両名の築城が完了した折には徳川家康本人がそれぞれのお城を見学し、より散財させようと「あれも作った方がいいんじゃない?」とさらなる増築を提案したのだそうです。

 

それに対して自身の旗本である彦根城主の井伊氏には散財させないようにしました。

かつて敵であった石田三成の居城を解体させて、その解体で得た資材を用いて彦根城を築城させることによって、安上がりに築城できるように取計らったりしていたそうです。

他の大名家から不信感を抱かせないような工夫をおこなっていたのです。

 

3代将軍徳川家光が考えた参勤交代も謀反対策

徳川家康の孫3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)武家諸法度禁中並公家諸法度を発令した名将軍です。

祖父である初代将軍の徳川家康が行った江戸城や各藩の城の増改築は臨時的なもので、各藩の財力を削ぐためには定期的な散財措置が必要でした。

そこで、3代将軍徳川家光が各藩の財力を削ぐために考えたのが、武家諸法度に明記されている参勤交代です。

 

参勤交代の際にかかる旅費宿泊費食費はすべて各藩に負担させ、自身の旗本である幕臣や徳川御三家などの身内には江戸に城中する役職を与える代わりに参勤交代を免除しました。

参勤交代は毎年行われる行事であり、定期的に各藩の財力を削ぐことに成功します。

 

なお、参勤交代は徳川家光が発布してから明治維新政府によって倒幕されるまで続いた謀反対策であり、3代将軍の徳川家光によって大名による謀反対策が完成したと言ってもよいでしょう。

 

まとめ

 

徳川家康を初代将軍とした江戸幕府の将軍家は元豊臣方の大名に対し、謀反を起こさせないように対策を行う必要がありました。

江戸幕府に対する謀反対策の基本的な方針としては各地の大名が大きな経済力(軍事力)を持たぬように、お金を散財させるというものでした。

 

初代将軍の徳川家康が命じた江戸城の増改築や各藩の藩府となる藩主の居城の増改築の強制はまさにそのためのもので、3代将軍徳川家光が作った参勤交代の制度によって定期的に財力を削ぐことに成功し、謀反対策が完成しました。










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