戦国時代に該当する中世は、日本のみならず世界中でお金というお金が出回り始めた時代です。
日本では従来の中国や朝鮮との交易に加え、ポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国との交易もこの頃にスタートし、日本国内で多種の通貨が使われたり、身分に支配された貧富が実力でひっくり返せるようになりました。
今回は日本の貨幣の歴史を辿りながら、戦国時代に出回るようになった主な貨幣とその役割、現代に換算した貨幣価値など、戦国時代の貨幣事情について解説していきます。
戦国時代は経済的にも下克上?
戦国時代の日本は戦国大名のほうが、公家や天皇家よりもお金を持っていた時代です。
記録によれば、今川義元の献金を得て6年越しの即位式を行った天皇やもともと格下として扱っていた武家に娘を嫁がせることによって経済的な支援を天皇家が受けていたという記述もあり、日本国内のお金事情は当時いまだかつて経験のない混乱を招きました。
また、日本が従来の中国や朝鮮との交易に加え、ポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国とも貿易を始めたのもこの頃で、戦国時代の経済は日本国内だけでなく世界中でお金というお金が出回り始めた時期でもあります。
戦国時代より前の時代の貨幣の使われ方
戦国時代より前の時代にも日本では貨幣が使われていました。
そのルーツを調べると時代は平安時代後期にまでさかのぼります。
時の権力者は平清盛。
平清盛といえば、保元の乱などで源氏と対立して争い勝利をおさめた平家の頭領です。
彼は史上初めて武士という身分で国のNo2である地位の太政大臣に就任し、天皇陛下や公家の有力者に次々と自分の娘を嫁がせて、国を手中におさめ平家の最盛期を築いたカリスマでもあります。
そんな平清盛ですが、彼は先見の明があったのでしょう。
平清盛は日本と当時の中国である宋(そう)と貿易を活発に行い、宋から宋銭(そうせん)と呼ばれる貨幣を輸入することで、日本へ貨幣制度を導入しようと実行した日本経済に欠かせない人物でもあります。
しかし、鎌倉時代まで宋銭は持っていてもほとんど融通が利かず、庶民たちの手にはなかなか渡ることがありませんでした。

宋銭(そうせん)
当時は貨幣を所持しているのが皇族や貴族と武家でも上位のランクに位置する者しか所持しておらず、貨幣の取引はほとんど身分が上位の者だけで完結していました。
具体的にどのような取引をしていたのかと言いますと、第一次産業の生産物の代わりとして公家や武家に支払う対価として貨幣が支払われました。
食べ物や工芸品を自ら仕入れて払うよりも、貨幣を使えば受領したものが好きなように食べ物でも着物でも工芸品にも換えられるので、皇族や上位の公家としては貨幣はとても使い勝手がよかったのです。
庶民の手にもようやく貨幣が出回りはじめた戦国時代
戦国時代は皇族や貴族、武家だけに限らず庶民たちにも貨幣が出回り始めた時代になります。
平清盛が貨幣を日本に導入してから300年も経ってようやくです。
庶民の手に貨幣が入るまでにそれだけの歳月と労力がかかったということです。
貨幣の経済が進むようになると”お店で貨幣を使って物を購入する”というスタイルが徐々に庶民たちにも浸透していきます。
もともと戦国時代以前の庶民たちは農家が野菜と引き換えに漁師から魚を調達したり、漁師が魚と引き換えに猟師から鳥肉を得るという物々交換のスタイルが主流だったため、お店を開いて専業で商売できる人々は幕府や朝廷、大名たちとつながりのあるほんの一部の商人や職人だけでした。
しかし、貨幣経済が進むとお金で食べ物を買うことが難しくなくなったので、どんどん商売を開業する商人や、職人が現れるようになったのです。
貨幣制度が庶民に浸透したことで、農民だった者が八百屋を開業したり、武士の出身者が問屋を開業するなど、商売に参入する者、業種が増えて日本の市場は急速に拡大しました。
当時日本国内で使用された貨幣、通貨
当時は日本国内で中国から入った貨幣や従来使われていた貨幣、戦国大名が独自に作った貨幣などさまざまな貨幣が日本国内に流通し、それに伴って貨幣経済が進みました。
貨幣経済が進むと物々交換だった従来の取引から貨幣を用いて取引されるようになります。
これは、経済的に汎用性を得るよい機会にもなりましたが、その反面、貨幣によって財を成す者と損をする者の差をどんどん大きくすることにつながりました。
それでは、当時どのような貨幣が使用されていたのか、以下に紹介いたします。
永楽通宝(えいらくつうほう)

永楽通宝は通称、永楽銭(えいらくせん)ともいい、織田信長が旗印にしたことで有名な貨幣です。
明の第3代皇帝の永楽帝の代より鋳造された貨幣で、日本には室町時代から開始された日明貿易(勘合貿易とも)で大量に輸入され、戦国時代主に使われる貨幣となりました。
こちらの貨幣の単位は、貨幣1枚で1文、貨幣10枚で1疋(ひき)、1疋=10文がさらに10倍するごとに結(100枚)、貫(1000枚)となりました。
金貨

金貨というと私たち日本人はどうしても大判や小判を想像してしまいます。
しかし、大判小判などの貨幣はきちんと度量衡を整備したうえで規格を定めて発行されたのに対し、戦国時代に使用されていた金貨は金を板状に叩いて伸ばしたもので、その重さを計って銅銭何枚分という時価レートで取引されました。
金貨の単位は両で、おおよその相場は金貨1両で4000文でした。
銀貨
金貨と同じように銀を板状に引き延ばして固めたものです。
取引方法も金貨同様重さを計って価値を計算されていました。
銀貨の単位も両でしたが、銀貨の場合は1両あたりおおよそ400文で取引されました。
鐚銭(びたせん)

鐚銭(びたせん)という貨幣は個人が偽造した粗悪な貨幣と長年の使用で表面が摩耗した粗悪な貨幣を差しています。
銅銭は摩耗が進むと価値が下がり、1文が1文として使うことができなくなるという不可解な現象を生みました。
また、私的に発行された貨幣の場合はまたの名を私鋳銭とも言われました。
このような貨幣は良質な貨幣と比べて低い比率で交換されたり、受け取りを拒否されることも多くありました。
また、良質な貨幣は鐚銭と区別するために精銭と呼ばれることもありました。
京銭(きんせん)
鐚銭よりもさらに粗悪な貨幣で、中国の南京付近で個人が独自に鋳造した貨幣のことを言います。
特徴としては模様や文字がほとんどなく、1569年に織田信長が発令した撰銭令の影響で京銭は精銭の10分の1とする交換基準が公式に定められ、一般的に通用する貨幣としてみなされました。
甲州金(こうしゅうきん)

武田信玄を代表とする武田氏が領国である甲斐国で発行した鋳造した金貨です。
廃吹法という製法で鋳造されました。
甲州金の単位は両、分、朱、糸目の4種類があり、交換する場合は1両=4分=16朱=64糸目という4進法の計算方法が採用されました。
天正大判(てんしょうおおばん)

豊臣秀吉が金細工師の後藤四郎兵衛に命じて鋳造させた貨幣です。
豊臣秀吉が大名への下賜品として贈ったり、兵糧米や軍需物資の対価として支払う際に使われました。
重量は1枚あたり44匁(もんめ)=165グラムが基準でした。
この貨幣に含まれる金の含有量は70~74%でした。
1588年から1592年までの4年間しか鋳造されなかった貨幣で、世界的に見ても大変レアな金貨です。
当時の貨幣の現在価値
さて貨幣を紹介させていただいたところで、これらの貨幣が現在価値であればいったいどれくらいの価値があるのかを説明しましょう。
まずは金貨からです。
金貨1枚を意味する金1両は、現在の円に換算すると約10万円に相当します。
これを基準にして、次は永楽通宝の価値を割り出していきます。
金一両は永楽通宝が4,000枚分に相当したということですので、導き出される計算式は100,000÷4,000=25。
つまり、永楽通宝1枚を意味する1文は約25円ということになります。
さらに永楽通宝の価値の10分の1に基準を定められてしまった鐚銭や京銭の場合は25÷10=2.5。
つまり鐚銭や京銭1文は2.5円です。
早起きは三文の徳と言われるけど?
私は陸上自衛隊に入隊するまで朝起きることが苦手で、ひとりで起きられることが稀でした。
そんなとき、よく母親に「早起きは三文の徳なのだから早く起きなさい」とよく叫ばれていました。
さきほど貨幣の現在価値を割り出してみましたが、いかがでしょうか?
せっかくなので、掲題のことわざがどれほどの徳を生み出すのかを計算してみましょう。
3文は1文が3枚。25×3なので、75円ということです。
せっかく早起きしても1日75円。
「それじゃあ缶コーヒーも買えないじゃないか!」という怒りがこみ上げてくるかもしれません。
結局のところ早起きの3文の徳とはこのぐらいのものなのです。現実的ですね。
戦国大名たちによる貨幣の運用
それでは次に戦国大名たちによって貨幣がどのように運用されていたのかを説明しましょう。
戦国大名たちもかつては貨幣を使わず、魚、肉、お米、塩などを税として領民たちから徴収しそれらを他国と交換し合って運用していました。
例えるなら、越後国から塩を購入するために甲斐国ではお米を、出羽国から魚を仕入れるために陸奥国では硯の材料を送って交換しました。
するとどうでしょうか?
不作の年になると、お米の値は高騰しそれに伴う塩の出荷量は増えます。
またお米がないのに「交換対象品はお米で…」とあっては、とても他国へお米を出荷することが難しくなります。
やはり物々交換ではこうした問題がどうしても起こってしまっていました。
そこで、物の代わりとして、貨幣を使用することで一定した価格帯による取引ができるようになりました。
また、この時代から商人や職人は農産物や漁獲物の代わりに貨幣を支払うことで、納税したことになりました。
戦国時代に開業され始めた金融業
当時最先端の商売と言われたのが土倉という業者です。
土倉は物品を担保として預かる代わりにお金を貸す元祖消費者金融です。
貨幣を元手にして貨幣を増やすという商売柄、貨幣制度が浸透しなければ決して日を浴びることができなかったでしょう。
しかも土倉は庶民だけでなく大名や朝廷からも利用されることがあったそうで、公家や大名を顧客として抱えた土倉は生涯遊んで暮らせるほどの巨万の富みを築きました。
まとめ
戦国時代に使用されていた貨幣やその交換レートなどに触れて当時の日本の貨幣事情を説明しました。
当時は現在の日本銀行が発行している日本円のような公正な貨幣制度がまだ出来上がっていない時代でもありました。
そのことによって様々な種類の貨幣が出回っていたようです。
第一次世界大戦後、ドイツでは貨幣を発行しすぎたあまり貨幣が貨幣の役割を果たせなくなった事例がありましたが、それは戦国時代の日本でも起きていました。
アメリカのウォール街を襲った世界恐慌のような現象も日本国内で起きており、土倉と呼ばれる金融業者は昨日まで大金持ちだったのに今日から1文なしになるという悲劇も平行して日本経済を襲いました。
戦国時代の日本国内では中国の貨幣や大名が発行した独自の貨幣、個人が偽造した偽物の貨幣など、世に出回る貨幣に振り回された経済情勢だったといえます。
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